いつかの彼方
___ちゃぽっ
手桶の水がかすかな音を立てて、外から差込む灯りを水面が跳ね返す。ちらちらと目を刺す小さな光が銀時を小馬鹿にしているようで忌々しい。
「ホンにぬしは生傷の絶えぬ男じゃな」
「誰のせいだ?誰の?」
前髪を掻き分ける月詠の手の動きを上目遣いに追う銀時のむくれた顔に、月詠が笑いを噛みしめる。
「銀時」
「ん」
「あまり傷を増やすな。」
それは月詠の心からの願い。
___傷つくな、これ以上。傷を負うな、体にも心にも。わっちのあずかり知らぬところで、傷を作るな・・・
と、言外に。
「どの口がそれを言いますかねぇ」
月詠が貼ってくれた絆創膏を撫でながら銀時も憎々しげに笑うと、月詠は一つ咳払いをした。
「・・・まあ、あれじゃ。わっち以外に傷をつけさせるなと言うことじゃ・・・」
「太夫、それすごい口説き文句」
「そうか?」
「そうだよ」
口説いてるんだろと言われて炸裂させるのは、顎に指を考え込む可愛い仕草。
そうじゃな、口説いておる、と言う答えを期待して待てば、はた、と真剣な眼差しが銀時を射返す。
「銀時」
その声もどこか張り詰めていて、銀時は思わず背を伸ばして、はい、と寺子屋の生徒のような返事をした。
「気をつけて、行ってきなんし」
「・・・」
「武運を、というのは違うかもしれぬが・・・。祈っておる。」
居住まいを正し、無事を願う。
どこかへ行ってしまうなら
目の届かぬところへ行ってしまうなら
また置いていかれるなら
連れて行ってくれぬなら
どうか無事でとただ願う。
銀時はあぐらの両足首を掴んだまま、屈む月詠に問いかけた。
「神楽から聞いた?」
「神楽はぬしについては言葉を濁した。だから、逆に分かりんした。」
___行ってしまうのじゃな
「そうか」
「それで、どうしたらいいか分からなくなりんした」
「・・・え?」
「・・・ぬしが万事屋をたたむことなど考えたこともなかったからの。バカな女じゃ、わっちは。ぬしのことなど何も知らぬのに・・・」
凛と佇む月詠の眉尻が寂しそうに下がる。紅潮していた頰も心なし蒼ざめて、綺麗に伸びた背筋が急に縮こまったようにも見える。簪の飾り紐が微かに慄えていた。
もう十分。
そっちが惚れた、こっちが腫れたと言ってみたところで、事実は一つ。
俺はこいつにぞっこんで、こいつ以外にないんだから。
「月詠。・・・もう一つきいて」
「なんじゃ?」
「ぎゅってさせて」
___いなくなる前に
「お前の匂いとか、体温や感触をちゃんと覚えておきてェ。この腕に染み込ませておきてェ。この身体に刻みつけておきてェ。」
「・・・銀時」
だから
___ぎゅっ、てさせて
薄暗がりの中、月詠の顔に再び朱が上る。うぶでおぼこそのままに、血を拭った手ぬぐいを膝の上でぐしゃぐしゃに握りしめ、俯いてしまった月詠に銀時は両腕を差し出す。
「ほれっ・・・」
ちらりと銀時を見る月詠の顔に広がる困惑。長い睫毛が震える。紫紺の瞳が揺らめく。ちいさな金のピアスが光る耳たぶ、滑らかな曲線の首筋まで赤い。
ああ、可愛いなあ、コンチクショー。
このまま連れて行っちまいてェなぁ。
「・・・おいで・・・」
差し出した両腕をさらに広げると、意を決したように、畳に手をついておっかなびっくり近寄ってくる。その緩慢な動きが焦れったい。月詠は焦らす気など微塵もないのだろうけれど、手を伸ばせば届くのに届かない、触れられるのに触れられないこの距離が近くて遠くてまどろっこしい。その距離を一気に飛び越えるように銀時の手が伸びる。
月詠の手首を銀時の手がひやりと掴む。その冷たさに、弾かれたように月詠が顔を上げる。
「・・・もう、観念して」
捉えた銀時の眼差しが縋るようで悲しい。その言葉が乞うようでさびしい。触れる冷えた指先の小刻みな震えが胸の奥の愛おしさを抉り出す。
時間ばかりたった。
ああだ、こうだと、理屈ばかりこね回してた。
もう待てないし、待たないし、待ちたくない。
死んだ魚の目に艶な灯りがともる。痛くないように手首を掴まれ、引っ張られ、月詠は銀時の腕の中に埋もれた。
額が銀時の鎖骨にあたってコツンと音を立てる。
密着した着流しを伝わる心臓の音が耳に痛い。月詠は銀時の胸に耳をぴったりとつけて彼の鼓動に聴き入った。
「早鐘のようじゃ」
思いの外、早くて、大きくて、その振動までもが伝わってくる。
「ドキドキしてるもん」
月詠の背中に回した銀時の両腕はそのまま重なってその中に月詠を閉じ込める。
今度はセクハラ紛いを言い訳にした触れ方じゃなく、ちゃんと。両の腕に思いを込めて月詠を抱き締める。大切に大切に。
細い肩越しに目に飛び込むうなじが薄闇の中でも真っ白で眩しい。それが少し震えているから、子供をあやすようにとんとんと背中を叩くと、月詠はふうっと息を吐いてゆったりと銀時にもたれかかった。
以前、一度だけ抱いたことがある。抱いたと言うより抱きとめて、抱き上げた。
細かった。
細くて、軽くてしなやかで、いい匂いがした。
その時とは違う感触、違う重み、違う匂い。
「あ〜、やっと抱けた」
零れたのは嘘偽りのない本心。
銀時が月詠の柔らかい髪に顔を擦り付けると結い上げた毛先が頰を、鼻を擽った。
「銀時」
「ん・・・」
「わっちは、埃と煤まみれでありんすよ・・・」
「かまやしねェよ。ずっとこうしたかったんだからな、コノヤロー。堪能させろ、コノヤロー」
もっと深く。もっと強く。
お前を感じさせやがれ。
お前を刻ませやがれ。
「んで、俺の匂い、たっぷりつけさせろ。こってりつけさせろ。俺の匂いは強烈だからな。他の男が寄って来ても、鼻抓んでお前から逃げてくぜ、ザマーミロってんだ!」
閉じた両腕をもう一度、少し緩めて抱き締め直して、腕の中の月詠の存在を確認する。
それはわっちも勘弁じゃと、腕の中で月詠が笑うこの刹那。
どれほど願ったかしれない、この瞬間。
やっとの思いで抱きしめてみれば驚く事ばかりで、今まで月詠の何を見てきたんだと銀時は思う。
腕の中の体温は死神太夫という血も通わぬ通り名とは真逆の暖かさ。
無骨な腕に触れる肩や背中は力を込めれば壊れそうに儚い。
絡ませた指は細く。きゅっと握り締めれば折れてしまいそうに細く。所々、残る瘢痕が痛々しいけれど、くないや匕首のあたりタコもない滑らかな肌。
銀時は絡ませたままの月詠の指をそっと自分の唇に近づけた。
銀色の糸で誓いを立てた指。
生きて戻ると誓った指。
あの誓いは今でも、これからも___
「月詠」
「あい」
「ありがとな」
「何がじゃ?」
「お前が来てくれたお陰で頑張れた。お前がいてくれたから踏ん張れた。まだまだ、やって
ねェことあるって、やりたいことがあるって。ここで負けられっかって思えた。」
「礼なら日輪たちに言ってくれ。尻を叩いてくれたのは日輪たちじゃ。」
「太夫、そこは嘘でもどうせ死ぬならお前様のそばで死にとうありんしたって言うとこ・・・」
・・・ろ、と、言い終わらぬうちに月詠が顔を上げる。見下ろせば、紫紺のびっくり眼が銀時の顔に釘付けだ。
「何?」
「・・・お前様はわっちの事はお見通しでありんすのか・・・?」
心底驚いた、と、問う子供みたいな声が可愛い。
「・・・って事は当たり・・・?」
腕の中の月詠は赤い頬をさらに紅潮させて、こくりと頷く。銀時の胸の上に置かれた月詠の手が胸元をキュッと掴むと、銀時の背筋を電流が貫いた。
「あ~~~っっっっっ!!!」
月詠を抱いたまま、銀時が叫ぶから腕の中で彼女も跳ねる。
「・・・!?」
「ちゅ~してェ!ディープなちゅ~して、あっちこっち触って、押し倒して、あ~んなことやこ~んなことしてェっ!」
ぎゅうぎゅうと締め付ける銀時の拘束が息苦しい。銀時の胸板に頰や鼻が押し付けられて潰れそうだがそれも嬉しい。
「・・・す、好きにしなんし・・・」
両手で着流しにしがみつく月詠の消え入りそうな声が胸元に零れた。
月詠は身体をすっかり銀時に預け、銀時の胸板に月詠の頬が触れているあたりがさっきより熱い。自分の言葉に恥ずかしさでいっぱいなんだろう。沸騰したヤカンみたいに蒸気を吹き出して、真っ赤な顔をして。それでも一生懸命、銀時に答えようと、慣れない言葉を唇にのせる。
銀時は一瞬天井を見上げて考えたが、すぐに首を左右に振った。
「いやいやいやいや。だめですううう。それはできません。めっちゃしてぇけど。死ぬほどしてぇけど・・・」
お前、ホント、最強・・・とか何とか、聞き取れない独り言を口の中でぶつぶつ繰り返しながら、月詠の頭を胸の中に抱え込む。
「今度こそ、本当になんもかも終わらせる。終わらせて、ちゃんとお前に本気の本音を伝えに帰って来る。そんでお前の望みを叶えてやるよ」
___逝く時は一緒だかんな
「ふふ・・・、あまり待たせると、分からぬぞ」
「おお!銀さんを煽るたぁ、上等じゃねェか。何ですか、おぼこが魔性の女に変身ですか?童女とアバズレは表裏一体ですかぁ?」
「どうじゃろ・・う・・・な・・・」
「月詠?」
途切れた言葉に腕の中を見下ろせば、知らぬ間に規則正しく上下する肩。力の抜けた身体を少し起こすと、静かな寝息が聞こえる。下りた瞼の下で眼球が動いているのはまだ深い眠りに落ちていないせいか。
襖を開けた瞬間、目に飛び込んできた月詠は疲労感を滲ませていた。目にしたことのない疲弊した月詠の姿に足と言葉が竦んだ。
吉原に帰ってから、働きづめだったことは容易に想像がつく、疲れ切った月詠の姿。見たことのないその姿に銀時の中で生まれた罪悪感。
守りたかったこの世界、守りたかった大切なもの。
この戦いに英雄なんていない。
誰もが大切な何かの為に立ち上がって、命をかけて、死に物狂いで得た勝利。
その中でも、銀時にとって、やはり月詠の存在は格別だった。
彼の為に、彼に会いに、彼を守る為に吉原を置いて駆けつけてくれた。たった一人の男のために部下を引き連れ動いてくれたと、手前勝手に舞い上がって勝機を手繰り寄せた。
彼女のおかげで諦めることなく、戦い続けられた。
―――お前は吉原を離れたことを負い目に思ってるだろうがな
俺を守り、江戸を守り、そして結局、お前が一番守りたかった吉原も守った。お前はすげぇ女だよ。
強く優しく、頭が切れるのに世間知らずで、とびっきりつきの美人で、酒にはとことん弱い酒乱娘。
気遣いの人なのに銀時の気持ちには全然気づいてくれない超にぶちん。
不確かな約束を確かに守る決意をくれる無垢な魂。
漸く腕にした、やっと気持ちが通じたと思った途端、腕の中で眠ってしまう攣れない女。
どちらかといえばとっつきにくい程の美貌のあどけない寝顔に笑みが零れる。
「お疲れさん」
青い血管が透ける瞼に唇を落とすと擽ったそうに身動ぐ月詠が可愛くて。
このまま懐に入れて持ち去りたい気持ちとの葛藤も、どこか嬉しくて、けれど寂しくて。
___いつか、きっと
うんざりするぐれぇ銀さんでいっぱいにしてやっから
月詠を抱いたまま、帯とベルトを解き、着流しで二人を包んで畳の上に横たわると、細く開けた窓から射し込む傾いた月の光が月詠の顔を照らす。
___今夜も月が綺麗だ
疲れと安堵と愛情と寂しさを抱きしめたまま、二人、眠りに落ちた。