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恋、はじめました

              #6 君の名は

「最近、ご機嫌じゃねえか・・・」

喫煙室で時間を潰してたら、同じく授業のない同僚が扉を開けるなりそう言った。
にっそり笑う口元にからかってやろうと言う魂胆が見え見えだ。
「お~!銀八、最近遅刻せんのう!頭でも打った?」
大学時代から方言を直そうともしないこいつも同じだ。
人が折角、朝の清々しく、楽しい一時を静かに反芻しようとしているのに。
この無粋でデリカシーもなくて、無遠慮の塊のようなこいつらに邪魔されるのは真っ平なので一瞥しただけで無言で立ち上がる。
のんびり静かに一人になれる場所は他にある。
理事長初め、ご時世に反して喫煙者の多い、この学校の人の出入りの激しい喫煙室で物思いにふける必要はねえ。
「・・・」
黙って、その場を立ち去ろうとすれば、髭と声のデカイ同僚にがっしと腕を捕まれた。
「なんだよ?」
「なんだよ?はこっちのセリフ」
とにやり。
「なんだよ?はこっちのセリフ」
ともう一つにやり。
「まあ、待て。まあ、座れ」
髭がガガガと床を削りながらパイプ椅子を引きずる。
___ばばあに怒られんのは俺だって!
椅子の背もたれに両肘を預けて、髭と声のでかいのがどっかりと座った。
「何か報告があるだろ?ん?」
「金八ぃ、隠したって無駄じゃぞ」
「別にねえよ!金八でもねえし!」
と一蹴すれば、そんなはずはないと尚も食い下がる。
こっちは情報つかんでんだと髭。
「はあっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げる。
と、またにやり
しまった、ひっかけだったか?と思ったが遅かった。
「最近は電車の中でえらい別嬪と楽しそうに歓談しながらご出勤だそうじゃねえか」
「ああ?」
「とぼけたって無駄だぜ、情報は掴んでんだ」
「お前、別嬪には興味ねぇんだろ?ブス専なんだろ?」
と、宜もなく遮ろうとして途端しまったと後悔した。
「・・・ってことは心当たりあるんだな?別嬪に」
「ねえよ!」
「怪しいっ!むきになるところがますます怪しいっ!どこのどちらさんだ?名前は?お住まいは?」
「そんな個人情報知っ・・・!」
「・・・え?まさか、名前も聞いてないのか?」
「あららら~、銀八ともあろうもんが何をぼやぼやしちゅうか・・・」
「・・・う、うるせえ・・・」

そうだ、そうだった。
毎朝、電車内で会って、数分話ができるだけで満足で、まだなんも聞き出せてねぇ・・・

目の前に突きつけられた事実に愕然とする。
コンクリートの塊が脳天に落ちてきたみたいな衝撃。
目の前は真っ暗だし、頭がぐわんぐわんする。
「・・・帰る・・・」
ふわりと椅子から立ち上がって、幽霊みたいにドアへと向かう。
足元がふわふわする。

あ!おい!帰るってまだ午前も終わってねえ!
相当ショックのようじゃのう・・・
背後で何やら囁く声がした。が、どこか遠くの汽笛のように俺の耳には虚ろに響く。

・・・名前・・・聞いてねえ

その事実だけが頭の中でぐるぐる回る。
台風の渦巻きのように。
必死で己れの尻尾を追いかけるバカ犬のように。

・・・名前・・・

いや、待て。
いやいやいや、待て待て待て。
名前も聞いていないが、職場だの家族構成だの、周辺情報ばかり収集して、肝心要の彼女自身のことは何一つ聞いていない。
・・・そして
俺も何も話していない。
名前も住所も職業も。
勿論、連絡先を交換するなんてこと・・・・・思いつきもしなかった・・・

眩暈がした。
足元がぐらついた。
咄嗟に凭れた下駄箱のスチールの冷たさが悲しかった。

ガッ!!!

己のバカさ加減を一喝するように下駄箱に頭をぶつけた。

だからと言って、彼女の名前がひらめくわけでもねえ・・・。

スリッパをはきかえるのも忘れて熱に浮かされたみたいに、ふらふらと歩く。
じりっと照り付ける太陽が、俺の迂闊さを嘲っている。
見上げれば青い青い夏空は彼女の瞳の色。
輝く太陽は髪の色。
その太陽が放つ光は彼女のまっ白なお肌と同じだ、コノヤロー。
校舎の窓から銀時!と叫ぶ声が飛んでくる。
振り替えると校長室の窓からばばあが亀みたいに首を伸ばして喚いている。
しわくちゃの首の上に乗ったしわくちゃの顔。

ああ、なんて醜い世界だろう。
俺の世界はこんなにも醜いもので覆われているのか・・・。

しわくちゃのばばあの顔が蜃気楼みたいにぐにゃりと曲がった。





to be continued...

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