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光る海

潮騒に目が覚めた。
耳に心地いい、緩慢な水の音。と、もう一つ。いや、二つ。
どれも聞き慣れない音だが不思議と心地いい。
穏やかで、快い音が低く規則正しく耳を叩く。



昨夕、海に誘われた。
似合わぬ真面目な顔で海に散歩に行こうと言うので、断ることもできず、スクーターの後ろに乗った。
着いたのはコンクリートで囲まれたあの海ではなく、なだらかな砂浜が延々と続く海だった。
浜に降りる階段の上で足を踏み出すのを躊躇っていると、黙って手を差し出された。
戸惑わなかったわけではないがその手をとった。
無骨な、けれど大きくて温かい手だった。
何も話さず。
手を繋いで歩いた。
砂を踏む音と波の音、時々、海鳥の鳴き声が聞こえていた。
どこから流れ着いたのか分からない朽ちかけた木に並んで腰掛け、海の向こうに沈む陽を眺めた。
夕陽を弾く水面はいつか何もかも飲み込む闇へと変わる。
その変容に思わず俯いた。
海面から目をそらし、繋いだ右手の上に左手を重ね、力を込めて握りしめる私を覗き込むようにして表情を探る眼が少し笑っていた。
それが悔しくて、繋いだ手を解いて、砂を蹴って歩き去ろうとしたけれど、逆に手を引っ張られて腕の中に閉じ込められた。
何が起こっているのか分からなくて、分からない自分が情けなかった。
けれど、そこから逃げ出すこともできなくて、勢いに任せて背に回した手に力を込めた。
すると、それに答えるようにもっと強く抱きしめられた。
閉じ込める腕が少し震えているような気がして、寒いのかと聞こうと頭をもたげれば、逆に胸に押し付けられる。
自分は人の顔を覗いたくせにずるい。
やがて強くて温かい拘束を解くと、手を繋ぎなおして砂浜を歩き始めた。
夕暮れ前に見かけた、打ち捨てられた漁師小屋。
時と海風に存分に傷めつけられた戸板に手をかけると、音も立てずに砂の上に崩れ落ちた。脆く崩れる戸板を物ともせずに小屋の中に先に入り、外で立ち尽くす私を抱き上げた。

海鳥も巣に戻ったのだろう、波の音だけがただ繰り返し聞こえていた。

あっという間に熾した火が赤々と頰を照らす。
赤い瞳は炎の色を映して、いつもより鮮やかに燃えていた。
漁師が捨て置いていった網の上に着流しを敷き、向き合う。
紅い瞳に映っている自分の姿が幻のようだ。
幻ならいつか消えるのだと思うと悲しかった。
そんな気持ちを察したわけではあるまいに繋いでいた手が頰を撫でてくれた。
そのまま落ちた胸の中で、降る口づけを受け止める。

巣に戻り損ねた海鳥が一声、小屋の真上で高く鳴いた。



穴だらけの板壁から白い光が射し込んでくる。
火はまだ少しだけ残っていて、吹き込む海風が僅かな残り火を煽る。
背中に当たる網の縄目が少しだけ痛い。
騒めきながら潮が満ちてくる。
波の音、呼気と一緒に髪を揺らす規則正しい呼吸と鼓動。
聞き慣れない音に満たされて安堵する。
背中は痛いけれど、私を殆ど胸の上に抱いたまま、寝入っている男の背中はわたしより痛いはず。
その痛みから解放しようと身動ぐと、拘束がきつくなる。
目覚めているのかと鼻をつまんでみたが、その眼は開かない。
それどころか脚まで絡められて思わず吹いた。
広い背中の向こう、壊れた入り口の彼方の水平に金色の光が走る。
見る間に辺り一面金色に満たされる。
小屋の中も一気に明るくなり、横たわる白い髪がキラキラと煌めいて、海と溶ける。

けれど、それはここにいて
わたしを抱いてここにいて
声も、手も、きっと届くここにいて・・・

自分と同じ色に変わるふわふわの髪を指に絡めて、解いて、絡めて、遊ぶ。
寝入っているはずの男が擽ったそうに、その指を捉えると、触れた唇が薄く笑う。

海が金色じゃ

その唇に重ねて呟くと、背中を摩る手が、もう、怖くねえだろと囁いた。





fin.

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