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恋、はじめました

                                         #8 恋、はじめました

彼女が電車に乗らなくなって一週間。
その間、ピリピリしたり、ぼんやりしたりを繰り返しているうちに夏休みに突入した。
部活の顧問もしていない俺は学校へ出かけるのは当直の日だけ。
『もしかして・・・』
と、淡い期待を抱くも雲散霧消。アスファルトの上に撒いた打ち水のごとく、あっという間に蒸発してなくなる。
吉原で下車してみようかと思わなくもなかったが、何かがそれを押しとどめていた。
これ以上、失望感を味わうことはないんじゃねえか・・・と。
彼女に会えなくなったこの事態はそれほどまでに俺を打ちのめしていた。

なんもかもやる気がしねえ・・・

以前はやる気があったかと言われたら、ないんだけども。それとは違うやる気のなさが俺をまんべんなく包む。
当直だってできるならバックレてえ。けど、ばばあのがみがみ顔を拝みたくねえから出て来るだけで・・・。

がらんとした職員室で机の上に足を投げ出して、風に煽られる白いカーテンをぼんやり見てる。
時々、吹く強い風に天井近くまで煽られると、青い空が見える。彼女の瞳の色、深く濃い青に心臓がちくりと痛む。
夏休みに入った頃から、チクチクがじくじくに変わったが、痛いことに変わりはねえ。いや、どちらかというとじくじくの方が質が悪い。痛くて仕方ねえまではいかねえが、無視できるほどでもない痛みが長く続く。
「ちくしょう」
あれから、口癖みたいになった言葉をまた吐き出す。
「どうしたんじゃ」
一緒に当直の辰馬に聞こえてしまったのか、訊き返されたが、別に、と答えて相変わらず外を見る。
毎度のことだが、当直は退屈じゃのう・・・などと、あっちはあっちで独りぶつぶつ言ってる。
高校も大学も同じだったこいつは休み前から俺の様子がおかしいと感じ取っていたようで、俺を遠巻きに見ている。普段はデリカシーの欠片もなくずけずけと人の中に入って来るくせに、腫れ物に触るような、その態度が癪に障るが、こいつには何の責もない。奴に突っかかったところで何がどうなるわけでもない。相談したところでいい知恵があるとも思えねえ。
全ては俺自身が原因だ。
人と真っ向から対峙してこなかったから、人と相対することに関して無頓着だ。人の気持ちなんて真剣に考えたことがなかったが、それは俺自身にも当てはまることで・・・。

誰かのことがこんなに気になって、誰かのことがこんなに恋しくて、逢いたくて仕方ない自分___
正直、珍獣に出くわしたような感覚でもある。

ぎっと椅子が軋む。それに反応するように心臓がまたじくっと痛んだ。



「ほれ」
ほっぺたに冷たいものを押し付けられてびっくりして目が覚めた。どうやらカーテンが上がったり下がったりするのを見ているうちに眠ってしまったみたいだ。
「寝とったんかい・・・」
お茶のペットボトルを手渡しながら、辰馬が机の上に腰を下ろした。
「暑い、暑い思うちょったが、それなりに秋はやってくるもんじゃのう」
確かにコンクリートも腐り果てるかと思うほど雨が降った後は、連日35度超えの殺人的な暑さが続いた。それでも、台風が2個ほど通過してからは、幾分、暑さも和らいでいる。
デリカシーの欠片もないはずの辰馬が柄にもない情緒のあることを言って窓の外を見る。
受け取ったペットボトルの蓋を捻りながら、ああでも、おうでもない返事をする。
カーテンを染める陽の光は少しオレンジ掛かっている。部活の声も聞こえなくなっていた。
「蝉の声が変っちゅう」
ペットボトルを傾けて、辰馬が顎をしゃくる。
言われて、窓の外から聞える音に耳をすませば、ミンミン蝉の声がツクツクボウシに変わっていた。



2学期が始まった。
ほとんど期待していなかったが、やはり彼女には会えなかった。
始業式に出るのも面倒だったので、学校に着くや職員室を素通りして保健室へ向かう。
養護教諭が1学期末から産休に入ったから、主のいない、空っぽの部屋。
流石に2学期初日から保健室に逃げ込む馬鹿は俺ぐらいなもので、しんと静まり返っている。
生徒の足音や喋る声が体育館の方へ移動しているのがかすかに聞こえる。
白いカーテンに仕切られたベッド一つ分の空間。まるで異世間みたいな空気を醸し出してくれるから、学校の中ではここが一番落ち着く。
スリッパを脱いでベッドの上に転がる。
じくじくした痛みは変わらねえ。今となっては、それすら手放したくねえと思えてくる。なぜって、それしか彼女に繋がるものがねえから・・・。
天井のマス目を見るともなしに見る。バカ校長が余計な設備にばっかり金かけるから、貧乏臭えシミが一つ。バカ校長のシルエットに見えるから笑えねえ。
始業式が終わる前までひと眠りしようと目を閉じた。





カタカタ、パタパタ
___んっ?
カーテンの外から小さな音が聞こえる。
『うっるせえなあ…人が気持ちよく寝てんのに・・・』
布団をかぶり直して、カーテンに背を向けるように寝返りを打つ。
ジャッ!
「銀八っ!!!起きなっ!」
その途端、カーテンレールのシャーの奴のジャッという音と怒鳴り声が隔離された空間を突き破る。
驚いて跳ね上がると、逆光を背負って、ばばあがそこに突っ立っていた。大魔神のように仁王立ちしてやがる。
「うわっ!目覚めに何つーツラ拝ませてくれちゃってんだ!」
眩しさととんでもない絵面に思わず目を塞ぐ。
「何が目覚めだ!教師のくせに新学期早々さぼりやがって!」
「ああ?・・・んなもん、雁首揃えなくとも、事は済むだろうがよ。どうせバカ校長のくっだらねえ長ばなs・・・、・・・?」
逆光を浴びて黒々とそびえたつばばあの背後にもう一人誰かいる。
「まあ、確かにあのバカの話は長いだけでヤマナシ、オチナシ、イミナシだが・・・って、てめえのさぼりのおかげで、いっぺんで済むものが2度手間になっちまったっつってんだよ!さっさとそこから離れな!」
ギャーギャーと発情期の猿みたいにばばあが騒ぐから、仕方なくベッドから離れることにする。
ああ、もしかして、産休の代理教諭・・・、だったら何もわざわざ、気持ちよく寝てる俺をたたき起こしてまで紹介に来なくてもいいんじゃね?職員室でばったり出くわした時でいいんじゃね?と思いながら、布団をはいで、ベッドから下りる。見つからないようベッドの真下に放り込んだスリッパを引っ張り出そうと屈んだ俺の背後でその人物が動く気配。
「紹介するよ。産休代理で吉原商業から転任されて来た月詠先生。」
「・・・!」
「こいつが例のちゃらんぽらん教師の坂田銀八。3年Z組の担任で担当は、えっ・・・と・・・」
「現国だよ!」
「あ、そうそう、現国。すまないね、教師やってる印象が薄すぎてさw先生、こいつが保健室にさぼりに来たら、遠慮なく叩き出していいから」
にこにことばばあの戯言に耳を傾けていた“月詠先生”が視線を俺に向けた瞬間、先生の唇から小さく驚く声が漏れる。
「・・・あっ・・・」
ガンッ!
俺は俺で屈んだ姿勢のままのけぞって、ベッドに後頭部をぶつけて、尻餅をついた。その反動で履きかけていたスリッパが床をシャーっと滑って”月詠先生”のつま先にぶつかって止まった。
「痛っ・・・ってか、ええええええ?」
じくじくと、鈍い痛みを訴えていた心臓がきゅっと縮んで小さく踊る。

「何やってんだい、お前は」
ばばあの声が呆れかえってる。俺と月詠先生の顔を交互に見て、怪訝な顔をする。
「なんだい、あんたら知り合いかい?」

___・・・知り合いも何も・・・

「じくじくの原因んんんんん!!!!!」





再会の瞬間はすこぶるカッコ悪いタイミングでやって来た。
けど、尻餅をついた俺を団栗眼で見下ろすのは間違いなく彼女の青い青い目で。
ばばあと同じく逆光で顔に暗い影が落ちてるけど、俺を見下ろしながら笑みを零しているのは、間違いなく彼女のキレーな顔で。
差し込む光に金髪が透けて・・・。

___そして、

俺の恋がまた、走り始めた___





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