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 la lune rouge

月は赤いものと認識していた___



舞い上がる血飛沫
天を焦がす爆炎
止め処なく広がる血溜まり

鼻をつく硝煙
吹き荒ぶ血風

俺の世界はそんなものが充満していた
倦むことも許されないまま、戦場を生きる場所としていた

そんな場所に色などない
目にするものすべての明度も彩度も落ち、色彩をなくしていたその頃、俺の周りに唯一残っていた色が血の赤だった
世界が赤で覆われていた
その赤を通して月を見ていた
この手で斬り伏せた数えられないほどの者たち
それらが噴き出す血の煙幕の向こうに、何時もそれは浮かんでいた
不気味なほどに静かに
凶々しいほどに煌めいて
動かなくなった屍を、残り少なくなった命にしがみつく生者の成れの果てを隅々まで照らしていた
緋い紗の衣を纏った地獄の判官のように
俺の罪過を何一つ見逃さぬと言わんばかりに



月が赤いな

誰にともなく零した言葉に

目に血が入ってるんだ、拭え

と、手拭いと呆れた言葉を投げてよこしたのは誰だったか

それほど俺は血濡れ、汚れていた

月は赤い

ずっとそう思っていた
この月を手に入れるまでは





白い・・・

初めて見えた時、その白さに言葉を失った
見たこともない、いっそ蒼いぐらいの白さだった

そんなはずはねぇ・・・

下卑た欲を解放することが唯一の目的の男たちしか訪うもののない地下の街
閉ざされた夜空に上ることもできず、色を鬻ぐだけの街を照らす安っぽい照明
埃を被り、焼けた羽虫の死骸を抱え、煤けてひび割れた場末の灯り

こんな場所に似合うのは到底そんなものでしかない

それなのに、誰にも何にも侵されない高みでそれはひとり輝いていた
汚れも穢れもない光を纏ってそこにいた

それを見た時、腹の底で何かが蠢いた
その白い光に俺の過去を否定されたような気持ちになった
過去になどなんの執着もないというのに

腹立たしかった
悔しかった
怯えもした
だが、同時に手に入れたいとも思った

飢えを癒す為でも、生き抜く為でもなく、純粋で単純な欲しいという感情が生まれた始めての瞬間だった
そんなものを持ち合わせていたことに俺自身が驚いた

手を伸ばせるのか
触れられるのか
この血濡れた両手であの白を汚せるのか


蒼惶、怯懦、憧憬、嫉妬、焦燥、諦観、羨望
頭の中でぐちゃぐちゃに混ぜかえした
様々な感情が消えては浮かび、浮かんでは消える中で最後に残ったのは狂暴なまでの欲だった



欲しい
欲しい
・・・欲しい



あの一点の染みもなく澄み渡る月を
高みで輝き、薄汚れた街を清める濁りのない月を
俺の場所に引き摺り下ろし、ねじ伏せて赤く染めてしまいたい

それが俺の生きてきた世界だったのだから

触れた時、冷たいものだなと、不思議に思った
熱ぼったい俺の皮膚を冷まし、逆に粟立たせるほどの冷たい感触
もっとも、その外見からそれは至極当然の事だと、その温度に多少なりとも驚いている自分が可笑しくもあった

何を考えているのかわからない殺風景な表情
笑うことなど殆どない
時折、同居人に向かって見せる微笑を盗み見るぐらいが精々だ
俺に向けられた笑顔など、指折り数えて片手で余る
口を開けば、澄ましかえって煙管をふかす整った横顔からは想像もつかない悪口雑言が間断なく飛び出す
最も、それは俺に対してのみだが

何を期待していたのか
どんな温度を期待していたのか

戸惑っているのは痛いほどわかった
だが、もう戻れねぇのも本音だった



___欲しいと思った瞬間から俺はこの時を待ち続けていた







いつもの如く些細な事で言い争う
俺はひねくれ者で軽口も過ぎるのは承知の上だが女は女で融通が利かない・・・、というか、頭が固いというか、天然で、負けず嫌いだ
傍から見たら取るに足らないくだらないことですぐに舌戦に発展する
その夜もそんな経緯だったことは覚えている



いつもと違うのは___



短気を起こした女が席を立ち、俺は部屋を出て行こうする女の腕を咄嗟に掴んだ
常と違ったのは、その後、俺の身に刺さる苦無がなかったことだ
女は身構える俺を振り返って噛み付きそうな目で睨みつけた
ただ、それだけだ
掴んだ俺の手を振りほどこうともしない
女が何を考えていたのかはわからない
が、俺の頭の中はこの手を放すなという言葉だけが渦巻いていた
少し力を込めて手を引けば、女はあっさりと俺の胡座の上に倒れ込んだ



___腕の中に月が堕ちた



逃げねぇのかよ

掴んだ肩は華奢だった
腕の中の女は唇を真一文字に結んで、眉を寄せて俺を見据えていた
いくら殺気を込めて俺を睨んだところで、虚勢をはる捕らえられた獣と同じだ
檻の中で威嚇の咆哮をあげる野獣だ
それを嘲笑うかのように俺は口角を吊り上げ、歪んだ笑いを女に向けて放った

何度も共に戦った
背も預けた
お互いを守った

その女が今、俺の膝の上で体を強張らせている

逃がしてくれるのか

俺を真似るように唇の端を引き攣らせる

誰が逃がすかよ

そう言いながら歪んだ笑みを貼り付ける女の唇に唇を落とした
まっすぐ俺を睨みつける視線とはぶつかったままだ
鴨頭草つきくさ色の瞳に映った白い影はどこか満足そうだった

色気のねぇ

思わず苦笑すると

わっちは吉原育ちじゃが、女を捨てた身じゃ。男女のことには疎くての。生憎じゃったのぉ

と、更に唇を歪めて見せた
悪態はあくまでも健在だが、ただ強がっているだけなのがありありと分かる
俺の着物を掴んだ手が小刻みに震えている
女を捨てたのなら、震えることはない
苦無でもなんでも俺に打ち込んでさっさと終わらせればいい
だが、そんな素振りも見せず、ただ震えて俺の着物を握りしめる

何が女を捨てた、だ

そんなところが俺を苛立たせるのがわからねぇほどのおぼこが・・・

手を握ると観念したのか体の硬直が融けた

共に戦うその場所で、交わす視線の奥に何かを感じていたのは俺だけじゃない
預けた背が掻き乱していたのはお前の心だけじゃない
俺もお前も守りたいのは捨て去ったものじゃない

握った手を俺の首に巻き付ける
髪紐、苦無の簪を取り除く
金色の髪が肩を抱く俺の腕にさらりと落ちた

以前から思っていた
髪を下ろすと途端に幼くなる

自分に課した責務を全うする為、何年も飛び越えて大人になったのだろう
幾年も置き去りにして駆けてきたのだろう

その決意の証
額と頰に走る傷にくちづける
そっとくちづけると瞼が落ちた

それを確かめ、もう一度唇を合わせる
浅く深く角度を変えて、女の呼吸の一つ一つを飲み込む
細い顎を鷲掴みにして固定させ、頑なに閉じる歯列を舌で浚う

俺の首に回していた手が解け、胸板を押し返す
喉の奥が鳴る
紅も引かない唇の端から微かな声が漏れる

鳴け
もっと鳴け
捌け口を求めて彷徨っていた俺の欲を受け止めて鳴いてみろ

薄く目蓋を開いて、手中の女の様子を伺うと、小さな雫が一つ、睫毛の先に震えてしがみついていた
ほんの僅か心が騒つく

悪ぃな
泣こうが喚こうが、今更止める気はねぇ
嫌なら大声で助けを呼べ

声にもせずそんな事を言ったところで女には届かない
逃す気も止める気もいたわる気持ちも此処にはない


___あるのは、ただ・・・



俺を押し戻そうとする小さな手を掴んで、指先に唇で触れた
苦無、匕首を操り、この街を、苦界に身を投じた女たちを守ってきた白くて細い指
しなやかな指の一本一本に唇を這わせながら、腕の中の女を見やる
その双眸の中の俺は薄く張られた水の膜のせいで輪郭も何もない
ぼやけまくった白い妖様あやかしようのものが必死で女の目の中に己を見出そうとしているさまが滑稽だった

月詠

今日、初めて女の名を呼んだ

潤んだ瞳が瞬く

掴まってろ

衿袷から指を滑り込ませた

女の肢体が慄く
その瞬間、必死で睫毛にしがみついていた水滴が頰に落ちた
滑らかな頰を透明な雫が音も立てずに滑っていく
俺は気付かぬ体で鎖骨を撫でた

冷てぇな

衣で覆われているのに冷えた感触が指に伝わる

死神じゃからな

そう言った女の顔からは皮肉めいた笑みは消え去っていた

死を纏った月、か
俺にぴったりじゃねぇか・・・

そんな事を考えながら、女の身体を横たえる
女を捨てたと嘯く女が男の両の腕かいなの中で女然として横たわる

この女は知らない

これほど女を匂わせる女が他にいるものか
その無自覚、無意識が逆に男を煽るのだと
捨てた、捨てたと繰り返す、その言葉が呪詛となり、その身を束縛するのだと

知らないなら知らせるまで
自覚がないなら自覚させるまで

その戒めから解放するため、
俺は幾重にも重なった搦め手を引き千切り、その身体に手をかける


引き摺られ落ちた月が俺の視界の下にいる



歪んだ所有欲、拗れた独占欲、爛れた支配欲、様々な後ろ暗く餓えていた感情が満たされたような気がした
衿袷に差し入れた手をそのまま肩に滑らせ、乱暴に引き毟る
途端、眼前に現れた白さにぞっとした



無駄に明るいこの街の猥雑な灯の色が照らす薄い闇
逆光を浴びた俺の、黒々とした影の中ですらその白さを失わない
踏み荒らされる前の新雪のように無垢でありながら、散らばる傷痕

胃の腑をぎりぎり締め上げられる

届かないのか
ここまで引き摺り下ろしても、掌中に捉えても
どこまでも孤高を保つのか

俺の中で何時ぞやの絶望と果てのない欲が頭を擡げる


・・・お前は、真っ白だな

女の肌に手の甲を滑らせながら呟く
整った肌理の所々に残る傷痕が俺の手を止める

ぬしこそ

俺の声が震えていることに気付いてか、怒ったような、困ったような、それでいて今までに見せた中で一番の柔らかい笑みを浮かべて、女が手を伸ばす
伸ばした指先に俺の髪を絡めて、弄ぶ
忌み嫌うしかなかった俺の白い髪を柔らかく梳く指が信じられなかった



日向と影をくっきり分け隔てるのが陽光なら
その境界を曖昧にして影に住まう者までをも照らすのが月光だ
日蔭に太陽はいないが、月影に月はいる
何処までも光の片鱗を届けるように月は在る



俺は目を見開いて、女を見つめた
俺に組し抱かれ、着物をはぎ取られてなお、俺の揺らぎに心を砕く



___月は優しく微笑んで俺を見上げていた







喧騒が遠ざかる

静寂の中、 聞こえるのは衣擦れと息遣い
初めて見えた時のあの叫び



欲しい
欲しい
欲しい



俺の腕の中に落ちた白い月
落ちてなおその輝きを失わない神々しい月
地にあって数多を照らす優しい月



再び、天空に舞い上がるというのなら

俺の為だけに舞えばいい
俺の為だけに煌けばいい
俺の為だけに在ればいい

俺の中で独善が暴れ回る
目の前にある輝きに手前勝手に救いを求める
欺瞞に身を任せた俺はその光の海に身を沈めた





 

どれだけ時がたったか分からない
地下の街は不夜城にも似て、時の感覚を鈍らせる

冷気を含んでいた部屋が生温かい
隅々まで湿った空気で満たされている
時の経過を窺い知るのはそんなものぐらいだ



月に、
この血濡れた手を伸ばした
月を、
この汚れた手で捕らえた



___月を抱いた



美しい眉根を寄せ
薄い唇を噛み締め
柔らかい肢体を強張らせ

月は俺に抱かれていた





俺のざらついた肌と合わさると、その滑らかな肌もざわついた
這わせる俺の指先にしっとりと吸い付いていた肌がささくれ立つのが伝わる
皮膚を通して拍動までもが伝わる

唇から漏れる音、骨が軋む音、肌が擦れる音に遠慮がちに混ざり始める水音
遠くの木霊にも似た微かな音に俺の血は一気に沸点に達した

無我夢中で目も眩む白い肌を貪る
そのさまはまさに餓鬼だ
骨も肉も、髪も爪も、ただの一片も残さぬように食らう
纏っていた装束を引きはがし、雪肌に執拗に歯を立て、身体を穿つ



___月が苦痛に耐える



その表情が俺の罪悪感を呼び覚ます
沼底に貼り付いていた澱が剥がれるように、一片剥がれては、ゆらりと浮かぶ
だが、そんなものが俺を止める術を持ち合わせているはずもない
水面に浮かび上がる前に霧の如く消え失せる

背に女の爪が食い込む
それは俺の咎を苛む鞭だ
打てばいい
突き立てればいい
それで足りぬなら、歯でも刃でも突き刺せばいい
責めはいくらでも受け入れる

皮膚が破れ、血が流れようとも
骨が折れ、粉々に砕けようとも
それがこの月を己がものにする対価というのなら、その痛みですら愉悦となる



女は俺の背に爪を立て、硬く目を閉じ、そして、唇が切れそうなほど強く噛んでいた
打ち込まれた楔が動くたび、食い縛る唇が弛緩する
その隙間から堪え切れず零す声の色が僅かに変わる
苦痛を逃がすための呼吸が、淡く、微かに喘ぎに変る
熱と色を帯びた小さな悲鳴が申し訳程度に残っていた俺の理性を消し去った

俺は自ら感覚を遮断し、目の前の女に埋もれていく
熱にうかされた俺の頭は、女以外の何かを感じたいとも思っていなかった

息が切れる
心臓が跳ねる
体中の血が一点を目指して、駆け巡る

濡れた前髪、顳かみから噴き出し顎先に流れ落ちた汗が雫となって女の上に落ちた
きらきらと光を放ちながら女の肌を濡らす
肌の上に落ちた水滴は、女の首筋に弧を描きながら流れた
見るともなしのその行方を追っていた俺の視線に女の視線が絡まる



月が俺を見ていた
果てのない空から引きずり下ろされた月が腕の中から俺を見上げていた



俺を見上げる女の額に滲む汗が金色の髪を絡めとる
女の額にへばりつく前髪の隙間から見える女の視線は、定まらぬ視点を探し求めて彷徨っていた
俺の視線を捉えた刹那、女は安堵したように目尻を下げ、俺の名を呟いた



月が俺を呼ぶ
断じるでもなく、蔑むでもなく、まして、天空に在った時のように俺の咎を責めるでもなく



か細い声が俺の耳を叩く
癒すような縋るような囁きは変わらない
壊れ物を扱うように俺の頰に手を伸ばし、流れ落ちる汗をそっと拭う
俺の名を呼びながら頰を撫でるその柔らかさも変わらない



月が俺を照らす
汚れた地面に引き摺り下ろされ、身体を貫かれ汚されても、月は優しく俺を照らし、包んでいた



あの頃、月は天空から俺を見下す存在だった

空高くはられた幔幕の上で、俺に切り伏せられた者が血飛沫を上げながら絶命するさまを見ていた
血混じりの赤い空気が視界を染めるのを黙して見ていた

今、地上の月は

無理やり引き剥がした青鈍の敷妙しきたえの上にあって、俺の手前勝手に弄ばれていた
俺の滾った血を受け止め、薄い紅の衣を纏おうとしていた



俺の頬を包んだ手に指を絡ませ、ぐちゃぐちゃに乱れた着物の上に縫い付けた
じっと見下ろせば、蒼白い肢体のあちこちに、花弁を撒き散らしたような紅が浮かぶ
もともとあった傷痕に紛れ、薄闇の中でもはっきりと分かるそれは俺の痕だ
俺の中で何かが弾け飛ぶ



月詠



呼べば、俺の欲に翻弄され、彷徨うばかりの視線を俺の上に戻す
そして、淡い笑みを浮かべて俺を見つめ返す


数え切れないぐらいその名を呼んだ
母を恋う赤子のようにその名を繰り返した

上がる吐息の切れ切れに何度も俺の名を聞いた
愛し子をあやすように俺の名が響いた



耳を打つ俺の名が鼓膜を溶かす
揺れる白い姿態が網膜を破る
立ち上る蒸気が鼻腔を塞ぐ

いつもは涼やかな目尻
柔らかそうだが血色のない頬
毒煙を吐き散らすだけの唇も
陽に曝したことのない肌も

季節の移ろいに開花を待つ花のように色付き、ほころぶ
白絹に点々と朱が散る
蒼白だった月が赤く染まる





今、俺の腕の中で
月が
___赤い




fin.


 

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