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                                     恋降る、星降る

白い煙を吐き出してバスが闇の中に消えて行く。
降り立ったのは賑々しい音と光が溢れる街中とは違い、寂れたコンビニと今にも切れそうな街灯がせめてもの明るさを提供するひっそりとした場所だった。



住宅地でほとんどの乗客を降ろした後、バスは田園地帯へとむかった。二人は漸く空いた座席に並んで腰掛け、田んぼの中の一本道を進むバスに揺られ続けた。銀時と月詠を含めても数えるほどの乗客となった車内は静まり返っている。時折、寝入ってしまった男の鼾らしき音が響いて、月詠が肩を震わせていた。
___声出したって、わかりゃしねえのに・・・
・・・どうせあっちは寝てるんだ。
銀時は背後から動物の啼き声めいた音が聞こえてくるたび、密かに肩を震わせて、声を殺して笑う彼女の横顔を飽きることなく眺めていた。



降り立った辺りを見回すと、背後に黒々とした影が聳えていた。公園の出口に広がっていた闇より、遠くの人家の灯りしか見当たらない田園地帯より、さらに深くて濃い闇がそこにあった。
「ここは?」
「そんな心配そうな顔しなくても大丈夫だ。寒いけどちょっとここで待ってろ」
銀時は訝しげな月詠に目配せをして、走って道路を渡り、コンビニに向かった。
店の自動ドアが開くと立ち止まって彼女の方に振り向き手を振るので、月詠もつられて手を振り返した。が、顔の横でひらひらと翻る自分の掌にはたと気がついて、恥ずかしくなり、慌てて手を引っ込めた。
銀時はそんな彼女ににっと笑って店内に入って行った。

店の中で銀時が買い物をしている様子を道路のこちら側からぼんやりと眺める。
当たりは真っ暗で人の気配も勿論ない。九十九に折れ曲がった道路を上ってくる車もない。それどころか背後の木立の根際から、狸か狐が顔を出しそうな雰囲気だ。時折、高い梢の上から鳥の羽搏きや鳴き声が降ってくる。音といえばそれぐらいだった。
街中とは違い音も光も寂しいほどにない。だが、月詠はその静寂と暗闇にほっとした。
月詠を誘った銀時の本意はわからないままだが、初めての場所は驚くことばかりで楽しかった。ただ、慣れない人混みは吉原を警護するより気を遣うことに改めて気付いた。
___つくづく地下の生活が身に染みてついておるのう
独り言ちて、銀時がいるコンビニに目をやる。

銀時は丁度、店の奥の飲料水の棚から商品をとって籠に入れているところだった。酒でも買っているのだろう。何本か籠に入れた後、レジの前に立ち、店員と話しながら何か選んでいる。その横顔は遠目にも楽しそうだ。





師走の声を聞く少し前、銀時がぶらりとひのやにやって来た。
台所の壁に掛かったカレンダーに勝手に〇をつけて、この日は夜番を入れるなと言った。理由を尋ねたら言っちまったら面白くねえ、とにかく空けておけ、とだけ答えた。
そのことを日輪に相談すると、その日はなんだと思ってんだい、全く呆れるねぇ・・・と、大仰に溜息をつかれた。
日輪に言われるまでもなく、その日が何の日かぐらい月詠だとて知っている。

吉原の書き入れだ。

そんな日に月詠の身体が空くわけがない。
地上との行き来がしやすくなって客の入りも例年通りではないだろう。そうすれば酔っ払いが起こすトラブルも増える。そんなことは銀時も重々承知のはずなのに、そこを敢えて空けておけと言う彼の真意が月詠にはわからなかった。
日輪に、そんな日に休むわけにはいかないと訴えたが、折角誘ってくれたんだから、と渋い顔をされた。
「種明かしたら面白くないって言うんなら何か面白いことを考えてるんだよ。」
「日輪」
「なんだい?」
「銀時に何か聞いているのではないか?」
月詠はじっとりと日輪の文字通り明るい笑顔を睨みつけた。

この、姉とも母とも慕う吉原の太陽は月詠が銀時に惚れていると思っている。
惚れた男の言うことなら月詠も素直に聞くと思っている節があって、強情で仕事一本槍の妹分が手に負えない時、銀時を頼る事が少なくない。銀時は銀時で、日輪の押しには滅法弱い。ある程度の抵抗はするものの、結局、日輪の意を組んで動く羽目に陥る。

日輪の笑顔は時に月詠ですらその裏側に隠された真意を測りかねる時がある。
辛酸舐め尽くし、常闇の吉原を照らす希望と讃えられた笑みは、しかし、その穏やかさとは逆に人の心など簡単に見透かしてしまう鋭さと厳しさがある。
本音は一切表に出さない銀時ですら読まれてしまうのだから、まして、吉原しか知らないおぼこの月詠の胸中を読み解くなどお安い御用というわけだ。
その上で、静観したり、世話を焼いたり、こっそり銀時を動かしたりもする。そのどれもが月詠を思ってのことだと彼女は知っている。
知っているし、わかってはいるが月詠は月詠で、譲れない一線はある。
年末年始の書き入れ時に、自警団の頭たる己が呑気そうに休みを取るなどあり得ない。
それを日輪は承知しているからこそ、例によって美味い報酬をちらつかせ、万事屋への依頼という形で何事かを企んだのではないかと月詠は疑った。

「あんたに言わないものを私に話すかい。銀さんには何かと世話になってるんだから。そう無下に断るんじゃないよ」
そうは言っても、簡単に口を割る日輪でもない。それどころか、彼女にしては珍しくぴしゃりと言っ放った。
月詠は不承不承、休みを入れることにした。納得したわけではない、“何かと世話になってる”のは日輪もじゃないかとも思うし、言いぶりから察するに銀時は月詠だけを誘ったようだ。勝手に何かをお膳立てされるのは困る。月詠が銀時に惚れていると思い込むのは日輪の勝手だ。何度も否定したのに聞く耳を持たないのも。けれど、それはひのやの中だけに留めてもらいたい。そこでなら何を言われようと構わない。そもそも惚れてなどいない。

迷いたくない。違えたくない。
行く道は一つ。
その道程でたまたま出会った奴は、

___仲間じゃ

新八と神楽、お妙や猿飛と同じ、共に生き、共に闘う仲間なのだ。

にこにこと女でも見惚れる笑みを向ける日輪の顔をぐっと睨みながら月詠は奥歯を噛み締めた。



師走に入って、言われた通り夜番のシフトを入れなかったと連絡した。すると、待ち合わせ時間と場所を告げられた。名前だけは聞き覚えのある高級住宅街の最寄駅。かぶき町や吉原のような色を鬻ぐ、そういう世界に首まで浸かった身には縁遠い場所。
そんな街に出かけることに、少し気が引けたが、言われた通りに足を運んでみたら初めて目に、耳にするものばかりで驚いた。
季節のデコレーションやイルミネーションは吉原とは比較にならない煌びやかさ。行き交う人も吉原に出入りする連中とは品格さえ違うように見え、月詠は感じたことのない居心地の悪さに包まれた。
自分が酷く場違いな感じがする。
自分が居てはいけない場所のような気がする。
いたたまれず、吉原に帰りたくなった。
駅の時計を見たら待ち合わせ時間まで一時間の余裕があった。今なら、万事屋に電話をすればまだ銀時はいるかもしれない。月詠は電話ボックスを探し始めた。
その時、騒めきの中から聞こえた澄んだ美しい音色が月詠の足を止めた。音の元を辿ると、金色の鐘を手に演奏している一団がいた。

雑踏に紛れて、高く低く響く、濁りない音。
鐘を操る淀みない手の動き。

その両方に耳を、目を奪われた。
暫く聴いているとついさっき感じた居心地の悪さが和らいだ。
心の奥底に染み入るような音に、一瞬前まで吉原に帰ろうと思っていたことすら忘れて、聴き入った。
熱心に演奏を聴く月詠を、通行人たちが取り囲んでいるのも気にならなかった。
彼らが演奏ではなく月詠を興味深く見ているのは分かっていた。
それでも、その場を離れることはできなかった。





日が落ちて時間がたつにつれ冷え込む空気はコンビニのガラスを白く曇らせる。
扉の向こうの銀時は相変わらず店員と楽しそうに話している。
ガラスに貼り付く白い曇。その上に銀時の顔の上半分が見える。店員に相槌を打ったり、笑ったり、銀時が動くと、白い髪がぴょこぴょこ跳び跳ねる。まるで、散歩中の定春のようだ。
___ふふっ・・・
笑みと一緒に溢れた白い息が黒い空中に吸い込まれていくのを目で追う。
冷えきった夜気にバスの暖房で温まっていた体温を奪われ、月詠は思わず肩をすくめて両腕をさすった。

店内の銀時が何かを気取ったようにピタリと動きを止めて、ガラス越しに店外に視線を向けた。
曇りガラスを間に月詠と銀時の視線が絡む。
店員と笑い合っていた銀時の顔からふっと笑みが消えた。
珍しい真顔を月詠に向ける。

じっくり観察するとホリが深くて鼻筋が通っている。
整った顔立ちと言えなくもない。だが、いかんせん、やる気のない伸びきった表情が、貼り付いた面のようで、目と眉の間延びがはなはだしい。
剣を振るう時の鋭い眼差しは普段はどこへ仕舞われるのか、死んだ魚の目と新八たちにからかわれる白目がちな眼は鈍く光って、どんよりとしている。
___食わせ物の顔じゃ
何を考えているのか、どこに本音があるのか、いや、そもそも本音などというものがあるのだろうか。

掴みようのない雲。

銀時を一言で表せと言われたら月詠は迷わずそう答えるだろう。

仰ぎ見るばかりで手は届かない。
どっかり居座ったかと思えば、風に吹かれてどこかへ行ってしまう。
揚々として真っ白だったり、嵐を含んで黒々としていたり。

___わっちは馬鹿じゃが、そんな男に惚れるほど馬鹿ではありんせん

月詠は何かと銀時のことを持ち出す日輪と晴太の顔を思い浮かべながら、ガラスの向こうの男を見つめた。
店員はヒマを持て余していたのだろうか、銀時に何かと話しかけている。銀時は適当に相槌を打っているようだ。店の外に目を向けたまま、ふわふわの銀髪が上下に揺れ、ガラス越しに月詠を見つめたまま、銀時の唇が微かに、何事かを告げるように動いた。

店内をうろちょろと動き回る銀時をぼんやり眺めていると、自動ドアが開く音がした。
月詠は目を瞬かせて、店から出てきた銀時に焦点を合わせた。
両手にビニール袋を下げて道路を渡って来る。
うっすらと開いた唇から吐き出される白い呼気が空に昇っていく。
「ほら」
道路を渡り切った銀時は月詠の胸元に白いものを投げつけて寄越した。
不意をつかれた月詠は慌ててそれを握りしめる。
「?」
「それ、帯の間にでも入れておけ」
言われたとおり、その四角いものを前帯の間に入れ込むと、じわりと温もりが広がった。驚いた顔で銀時を見つめる月詠に
「使い捨てカイロ、知らねえの?駄目だよ、そんなじゃ。夜警の時は部下たちにも持ち歩くように言うぐらいの上司じゃなきゃ。女の子は体を冷やしちゃいけません」
得意そうに言ってさらに手袋を押し付ける。これもはめとけ、と。

「じゃ、行くか」
月詠が手袋をはめ終わるのも待たず、銀時は月詠の背後に向かって歩き出した。
彼女の背後には大きな口を開けた闇の入り口に鳥居が立っていた。そこから空に向かって伸びる階段を銀時が上っていく。月詠は鳥居の前で一礼してから、慌ててその後に続いた。階段の両側には石灯籠が延々と続いている。その後ろに大人が数人がかりで抱えても足りなさそうな立派な巨木が並び立っていた。

カツカツ、カツカツ
月詠のヒールが石階段にあたる。小気味いいリズムの足音が辺りに響く。なかなかに長い石段で、月詠は時々、後ろを振り返った。今しがた上ってきたばかりの階段はすっかり闇に取り込まれ、コンビニの照明も街灯も階段を上り始めた途端に見えなくなっていた。自分の足元を照らすのは冬空の灯りだけだった。
「なんだ。もうへばったのか?」
足を止めて下を見ていた月詠の上の方から、揶揄うような声が降って来る。
見上げると闇の中に白い着流しがぼんやりと浮かんでいた。
「・・・これしきの事でへばるか!」
カッカッカッカッ!
銀時がいるらしき辺りまで一気に駆け上がったものの、足元を照らすものもないこととて、月詠はうっかり石段の隙間にヒールを挟んでしまった。
「おっと!」
ぐらりと揺れた月詠の身体は咄嗟に伸びた腕に抱きとめられた。
「・・・す、すまぬ」
「いいってことよ。それよりさ。」
「・・・?」
「後ろ向いてみ」
敷石の隙間からヒールをもぎ取り、月詠は言われたとおりに振り返って目を見張った。
「あれは?」
「今さっきまで俺たちがいたところ。江戸だよ」
山の中腹の開けた視界。
地上と空の境も分からない程黒々とした空間に光の塊が浮かんでいた。
黒い海に浮かぶ巨大な光の塊がうねる大蛇のように横たわっている。小さな光が順番に点滅する様は蠕動する鱗のようだ。
「タワーが見えるだろ?あそこからちょっと右あたりがかぶき町」
銀時は月詠の返事も待たず光の海を指差した。こくりと頷いて、銀時の指の動きを追う。
「その左側がそよちゃんち」
夜空を照らす光の中に幾重にも層を重ねた黒い威容が聳え立つ。
権威を見せつけるかのようにそそり立つ巨大な建造物を「そよちゃんち」と言い放つ神楽の天衣無縫さを月詠は微笑ましく、しかし、羨ましくも感じた。
今頃、あの巨大な鳥篭の中に囲われた姫は外界からやって来た小さな自由と笑っていることだろう。
「吉原はどの辺りじや?」
銀時の指先を追いながら吉原の位置を尋ねる。
外の世界から、吉原はどんな風に見えるのか。
「ずーと右の方にぼんやりピンクに光ってるの。四角い光が地面から出てるとこ」
「・・・」
「あれが吉原」
「かぶき町と吉原の距離はここから見るとこんくらいだな」
銀時は親指と人差し指で距離を測る。
「いまにもくっつきそうじゃの」
U形になった銀時の親指と人差し指。3センチあるかないかの間隔を見て、月詠は夜景へと視線を戻した。
「その割りに遠いけどな」
銀時の言葉も耳に入らないのか、目の前に広がる光の海に呆気に取られたようにぼうっと見入ったまま立ち尽くす月詠を銀時は穏やかに見守った。


 

 


「銀時?」
暫くして、月詠は並んで江戸の街を眺めていた銀時の気配がなくなっていることに気づいた。
大声で呼んでも自分の声は木立に吸い込まれるばかり。何度も呼んで漸く頭上から彼の声が降ってきた。
「月詠!」
見上げると階段を上り切ったところに銀時が蝋燭を手に立っていた。
「上がって来い」
蝋燭の灯りの元、にっと笑った銀時が手招いた。

階段を上り切ると、境内が広がっていた。
真正面に古びた拝殿。両脇の灯篭と拝殿の階段に何本もの蝋燭が立てられ、辺りを照らしていた。
拝殿の階段の上には小さなケーキ。そこにも蝋燭が灯されている。ケーキと一緒に並べられたどんぶりからは湯気が立ちのぼっていた。
「なんのまねじゃ?」
「いいから、ここ座れ」
蝋燭を立てた小さなデコレーションケーキには柊やベルの飾りや、サンタを象った砂糖菓子が乗っていた。
どんぶりの中はおでんらしい。大根やこんにゃく、ゆで卵が浮かんでいる。一緒にペットボトルのお茶とカップ酒も並んでいた。
怪訝な様子を隠しもせず、階段に腰を下ろした月詠に、ほれ、と手渡されたのは中華まんだ。
___そう言えば
両掌の上でほかほかと湯気をたてるふんわり丸い物体を凝視する月詠の脳裏にバスの中から見た景色が蘇る。

公園や歩道にテーブルをが置かれ、ほとんどが若いカップルだが、食事をしていた。この寒いのに外で食事か、酔狂なものだと変に感心をした。
赤と緑のクロスのかかったテーブルの上にグラスに入った小さな蝋燭を灯し、器用にたたまれたナプキンの横には銀色のフォークやナイフが何本も並んでいた。
___箸なら一膳ですむものを
料理が運ばれる度、給仕が長々と話かけ、お客は訳知り顔に頷いて、新しいフォークに手を伸ばす。
その様子が不思議な光景として月詠の目に映った。
脇に立てかけられた黒板に凝った文字で書かれたメニューも名前を聞いただけでは何のことやらちんぷんかんぷんだった。

「ディナーとやらか?」
それを巷では「ディナー」と呼ぶらしいことぐらいは流石に知っていた。
「おうよ」
銀時は自信たっぷりに胸を張って見せたが、それにしては何ともちぐはぐな取り合わせだ。あの黒板にもまさか、おでんと中華まん、と書いてあったわけではないだろう。それでも銀時が月詠のために設えてくれたことに変りはなく、月詠はその気持ちが嬉しかった。
そもそも焼いたの煮たのか、調理法も分からない、食材がなにか見当もつかないような料理を食べる気はしないし、フォークだ、ナイフだ、テーブルに並べられても敵に投げることぐらいしか思いつかない。
気取った料理などお互い似合わない。
ちゃらんぽらんな組み合わせも如何にも銀時らしい。
ゆったりと湯気を立てるおでんとケーキを挟んで、月詠と銀時は階段に腰を下ろし、中華まんを頬張った。
銀時をちらりと見ると、頬張った中華まんの中身の小豆が見えた。それにカップ酒を飲みながらおでんとケーキを摘んでいる。気取った料理は似合わない。が、
___よくわからん味覚じゃの
おでんとケーキを勢いよく口に放り込んでいく様子を横目で見ながら月詠は大根をつつく。意外に味がよくしみていて美味しかった。
「あったまるのう」
帯の中のカイロと中華まん、おでんが冷えた身体を少しずつ解してくれる。だろ?と、笑った銀時の顔は満足そうだ。
流石に月詠は、おでんとケーキを交互に口にいれる寛容な舌は持ち合わせていないようで、中華まんとおでんの味をお茶でリセットし、ケーキに手を伸ばした。
「銀時」
「ん?」
ごっくんとケーキをのみこんで、しかし、前を向いたまま月詠は銀時に呼び掛ける。丁度、酒をあおっていた銀時は仰向いたまま、目だけを動かして隣に座る月詠を見た。
「日輪に何か頼まれたのじゃろう」
最後の一滴を飲み干して拳で口を拭う。
「いや」
ばれてた?と、慌てる彼を想像していた月詠は驚いたように目を見張った。
「で、では、なんで・・・」
「まあ、そんなに慌てなさんな」
銀時はこと、と空になったカップを階段に置いた。
「目を閉じて」
「え?」
「目ぇつむれって言ってんの」
「・・・」
「そうそう。俺がいいって言うまで目閉じてなさいね」

ギッ

拝殿の階段の古びた板を踏む銀時の気配。
「・・・銀時?」
「まだだ。動くなよ」
言葉で月詠の動きを封じる。
緊張するのか月詠は真っ直ぐな背筋をいっそうピンと伸ばした。

ギシッ

月詠の足元が銀時の重みでたわむ。閉じた双眸の向こうの銀時の気配があまりに濃厚で、月詠は一瞬後退った。
「動くなって」
息遣い、体温がすぐそこにある。
「銀時?」
瞑った瞼をさらにきつく閉じて恐る恐る銀時に呼びかける。
戸惑っているのか、月詠の震える声が銀時の耳をくすぐった。

銀時は暗がりの中に浮かぶ月詠の白くほっそりとした顎に手をかけた。
指先がほんの僅か触れただけで肌理の細かさ、滑らかさがわかる。
親指の先に、触れそうで触れない形の良い唇。力んで目を閉じているせいで鼻に寄ったシワ。
蒼白い頰をほんのり赤らめ、身体を強張らせる月詠の必死な面持ちで目を閉じる様子に吹き出しそうになりつつ、銀時は己の中で、彼女への想いがより強く、はっきりとしたものになるのを感じていた。

「銀時?」
「まだだぜ・・・」
そう言って顎にかけた指をついっと滑らせる。

顎先に銀時の指を感じる。
バスに乗る前、繋いだその時より、彼の手の温度は幾分か上昇している。その上がった体温は、酒のせいなのか、それとも他に理由があるのだろうか。
繋がれた手は大きかった。
肉厚だが、骨ばっていて、仕事熱心では決してないのに皮膚が少しささくれているのは剣の鍛錬だけは怠らない証拠だろう。
何もかもが適当で曖昧なこの男のそこだけは確たるものだ。
氷のように冷える空気の中で、銀時に触れられた肌だけが熱く、そして優しかった。

ややあって、顎先をついっと滑った銀時の手が頰全体を包んで、上を向かせるように動く。
「いいぜ」
月詠は恐る恐る瞼を開けた。
「・・・!」
目の前に広がる宝石の蒼穹。
灯されていた蝋燭は消え、漆黒の空に銀色の星が煌いていた。

凍てついたような蒼白い光、仄かに火を灯したようなほの赤い光、誇らしげにきらきらと輝く光もあれば、まるで今、永い眠りから覚めたかのようにゆっくりと瞬く光もある。
宝石を砕いて撒き散らした夜空。
光の粒子が月詠を包む。
息を飲むとはこの事をいうのだろう。
意識しなければ呼吸を止めて見入ってしまう、そんな美しさだった。
囁きあう星の声すら聞こえるようで、月詠は思わず耳を澄ませた。

言葉も発せず、空の星々に見入る月詠の様子に銀時は満足そうに頷いた。そして、もう一度、月詠の隣に腰を下ろし、並んで空を見上げた。



「街の灯りも綺麗じゃったが、ここは格別じゃな。・・・癒されるようじゃ」
暫く見入った後、月詠はふとそんなことを口にした。
「・・・だろ?街中は俺はどうも苦手でね。目がしぱしぱする」
「かぶき町の住人のくせにだらしがないの」
「そういうお前も吉原の住人じゃねえか」
「それもそうじゃ・・・それにしても不思議じゃ」
「何が?」
「同じ空なのに、星の数が全く違う。ここで見る方がずっと多いのでありんすな。小さな星まで見える」
「・・・街が明る過ぎるんだよ」
言われて月詠は改めて辺りを見回した。
煌びやかだった街の明灯りは神社を取り巻く森が遮られ、空まで届かない。
何百年も前からここに立っていただろう木々が生み出すのはその頃と変わらない闇。その闇が天空まで手を伸ばして、街中で見るのと同じとは思えないほど黒くて広い空が、そこにあった。

眩しさに目をすがめることもない。
射るような明るさに手をかざす必要もない。
ネオンや照明の明るさに圧され身を潜めてしまった星がここでは生き生きと輝いていた。

やがて、月詠が空に向かって手を伸ばし、握りしめる仕草をした。
「掴めたか?」
銀時が笑いながら訊いた。
握った掌を銀時の顔の前で広げて見せたが手の中は空っぽだ。
「残念だったな」
いや・・・、と一言言って、月詠は深い吐息を零す。
「なに?」
「・・・空はこんなにも広かったのじゃな・・・」
月詠は自分に言い聞かせるように呟いて、視線を空に向けた。
その横顔はどこか寂しそうで、反面安堵したようにも見える。銀時は、ああ、と言ったまま黙りこんだ。

「銀時、星が降ってくるぞ!」
突然、月詠が叫んだ。
「流れ星?」
「いや、ふわふわしておる」
月詠の指先を追うと、なるほど、白いものがふわふわと落ちてくる。それは月詠が広げた掌に落ちて瞬く間に溶けてなくなった。
「雪じゃ」
月詠は両肩を抱いてブルッと震えた。
星に見惚れて忘れていたが、夜が更ければ冷え込みも増す。標高は左程ではないが山は山だ。使い捨てカイロ一つで夜の冷え込みがしのげるはずはなかった。まして、月詠は深々とスリットの入ったいつもの出で立ちの上に、薄い羽織を着ているだけだ。よく見れば耳たぶや鼻の先、頬が真っ赤になっている。
___ほっぺが赤いのはそれな・・・
何となく期待していたものが裏切られたような気になって、銀時は気取られないよう微かな溜め息をついた。そして、自分のマフラーを解き、月詠の首に巻きつけた。手に下げてきた紙袋の中から赤と白の衣装を取り出し、月詠の肩に掛けてやる。
「?」
時々、本当に時々、彼女は置き忘れてきたかのような幼い表情を見せる。今、銀時に向ける、サンタ服の襟元を掴み、小首をかしげ、もの問いたげに見つめるそれもまさにその表情だ。
銀時はゴホンと一つ咳払いをした。
「ケーキ売りさばいたら来年も頼むから持ってっていいよ、だとさ」
「ぬしは寒くはないのか」
「おれはこれがあるからいいの。お前も飲む?」
懐から出したのは缶入り汁粉だった。
「・・・・・」
月詠は眉間に軽く皺を寄せて、ピンク色の缶に黒々と書かれた「おしるこ」の文字をねめつけた。
「何?その顔?」
「・・・」
「あ、もしかして銀さんにキュンとしちゃった?ギャップ萌えしちゃった?惚れちゃった?」
「たわけ、この顔のどこにそんなことが書いてある。ぬしの甘党ぶりにあきれただけじゃ」
自分の顔を指差し、言下に否定して、月詠はサンタ服を半分銀時の肩にかけた。
「え?えええええ?・・・月詠ちゃん、どうしたの?なんか企んでる?銀さんといけないことしようとか、思ってる?」
「アホか!風邪ひいて寝込まれては看病させられる神楽たちが気の毒だからじゃ!!」
にやにやと笑う銀時をぎろっと睨みつけてそっぽを向く月詠の頬はサンタ服同様、赤く染まっていた。


 

星は変わらずきらきらと輝いている。
時々、鳥が飛び立って、枝葉が騒つく。甲高い鳴き声が上空を横切っていく。
星の瞬きと、森の闇、鳥の声、葉擦れの音、風の匂い。
何十年も、何百年も、ずっと変わらずここにあったそれら以外、今、ここにいるのは銀時と月詠だけだ。

蒼白い月が上りきった空からふわりふわりと舞い落ちる雪が地面や木立、灯篭を覆う。
高みから空に、地に、月が光の粒を撒き散らしているようにも見える。
星明り、雪に覆われていく地上の様々なもの。
真っ白に姿を変えていく辺りの景色が、月詠への想いをつのらせる自分を見せつけられているようだった。



「銀時」
月詠が改まった声で銀時の名を呼んだ。彼女にしては低い声に銀時の心臓が跳ねる。銀時はざわつく心臓を抑え、肩の先にある月詠の横顔を見た。
彼女は空を見上げたままだ。
「わっちは色街と戦うこと以外、何も知らぬ。・・・馬鹿な女じゃと思ったじゃろう」
諦め混じりの言葉を零す唇は笑っている。けれど、何時も凛々しく張りつめている眉は下がっていた。
「そんなことねえよ」
「そうか」
「ああ。バカな女は他に山ほどいる」
膝に頬杖をつき、そう忌々しそうに吐き捨てた。
「・・・慰められている気がしんせん・・・」
心当たりでもあるかのような、心底うんざりだと言わんばかりの彼の顔つきをあきれたように見つめ、月詠は眉尻を下げたまま笑った。
「今日は誘ってくれてありがとうな」
言葉と一緒に吐き出される息が白く濃い。
「本当は来たくなかったんじゃねえの?」
銀時は聞かずもがなのことを訊く自分がバカだと思った。
「そうじゃの。今日は吉原も書き入れじゃ。こんな日に普通は休めぬ」
「太夫、そこは空気読んで。お得意の空気読んで!包み隠さなすぎっ!」
予想通り、嘘もごまかしもない真っ正直な答えが返ってきて、銀時は大袈裟に嘆いて見せた。月詠の双眸が悪戯っぽく光る。その笑みに言葉が詰まった。

___まいった・・・

気がつけば、日がな月詠のことを考えている自分がいた。
仏頂面だの、無愛想だの、彼女の機嫌を損ねることしか言わないくせに、その顔が見たくて仕方がない。
吉原から足が遠退けば、途端に落ち着かない。
パチンコ、麻雀、その他もろもろ、思いつく限りの気晴らしは何一つ役に立ちゃしない。
と言って用もないのに吉原に行くのも気不味くて、会えない日は積み重なる一方。
会ったからと悪態を付き合うだけで、関係性の変化など期待もできないのに会いたくて。
こんな感情は持ったことがない。
そんなものに掻き乱されている自分は情けない。
銀時が自分に惚れている、そんなこと爪の先ほども思っちゃいないだろう彼女は小憎らしい。
けれど、会いたくて。

・・・会いたくて。

彼女に正攻法など効かないだろう。
奇跡と言っても過言でない程のおぼこちゃんだし、そもそも恋などという、甘っちょろい経験など自分にもない。
どうすべきか、自分がどうしたいのかさえわからない。
だから、訳も言わずに強引に予定を空けさせた。
万事屋の仕事で偶然見つけた、あの頃の星空を一緒に見る、ただそれだけのために。

___こりゃあ、相当まいっちまってらぁ

けれど、見たのは自分の恋心の深さ。

何も言わず、視線を逸らして天パをガシガシと搔く銀時をしてやったりと笑っていた月詠の顔が、何かを思い出したように突然真顔になった。
「?」
「それと・・・、色々気を使わせてしまってすまなかった」
「・・・?」
「わかっておる」

ハンドベルの演奏に夢中になっていた時もバスの中でも。
好奇と興味と欲にまみれた視線から銀時が護ってくれたことを。

「月詠・・・」
「気にすることはありんせん。こんな風体ゆえ、奇異な目で見られるのはどこへ行っても同じじゃ。堅気でないことは一目瞭然でありんすし」
言いながら頬の傷に指を添わす。その指先の輪郭が微かにぼやけるのは雪のせいだけではあるまい。
「今日はまだ見られるだけだったからましじゃ。以前は女衒のようなものにしつこく声をかけられて・・・」
「女衒?・・・」
「何とか言うておった、ナントカプロダクションの・・」
「ああ・・・、え・・・と、スカウト?」
「そう!それじゃ」
「へ、へええ。すげえじゃん、モデルとかタレントとか?有名人になるチャンスじゃねえか」
___アホか!俺!
月詠がそんな話に乗るはずはない。
分かってはいるが、こんな時にも大人しくしていない天の邪鬼に銀時は悪態をついた。
銀時の言葉を月詠は意外と思ったのだろう、少し目を見張って彼を見返すと、彼の口角がひくひくとひきつっている。
「・・・わっちは一度吉原に買われた身じゃ。二度も買われるのは御免被る」
「・・・そうだな。すまねえ・・・」
「ぬしが謝ることではありんせん。・・・それに・・・」
「・・・?」
「モデルだかタレントだか知らぬがそんなもの興味ありんせん。そんなものになったら、こんな風に好きなだけ星空を眺められなくなるんじゃろう?こんなことができるのもぬしたちが命懸けで取り戻してくれた自由のおかげじゃ。大切にせねばバチが当たる。」

そう言って月詠はびっくりするほど柔らかい笑みを浮かべ、再び空を仰ぎ見た。

金剛石をちりばめた蒼穹がそっくりそのまま月詠の瞳に映っていた。
手を伸ばしても届かなかった星が手の届くすごそこに降りて来ていた。

数えきれないほどの星が埋め尽くす空。

師と慕った人と仰いだ空。
旅の野中で、朽ちかけた木の虛で、崩れかけた小屋で、月明りが照らす縁側で。
並んで歩き、後を追い、背負われ、懐で眠りながら見上げた星空。

夢を語り、互いに鍛えあった友と数えた星。
剣戟が飛び交う道場で、肩を組んで繰り出した郭で、月が照らす屋根の上で。
背を預け、痛みを分かち、血を、涙を流しながら仰ぎ見た夜空。

それはこの世のものとも思えない程美しく、静かで、どこまでも光を届ける温かさだった。

あの頃のその星空が銀時の傍で静かに瞬いていた。
月詠の瞳の中で。



___夜空の星が少ないと気づいたのはいつの頃だったか

星を追いやる地上の明かりを忌々しく眺めていたのはいつの頃だったか

今は、そんなことはどうでもいい。
天蓋の星は、月が撒き散らす雪になって銀時と月詠の下に降りてくる。
ひとつひとつが思いの欠片となって降り注ぐ。
それが、月詠に届くように。

___今夜、祈る。





 

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