だって、仕方がないではないか___
誰に言うでなく月詠は独り言つ。
恋を手札にさぐり探られ、押したり引いたり。それが法のような街の、月詠は稀有な存在だ。
男相手の手練手管どころか身に付けたのは大切な日輪、吉原を守るための武術。
___そんなわっちが男心などわかるはずがなかろう
去り際に男が吐いた言葉が、胃の腑から迫り上がって、月詠の胸を締め付ける。
___それも承知のはずだったのではないのか・・・
それが甘えだという事は月詠自身も分かっている。けれど、そんな甘えも許してもらえるのだと、それと分かって愛してくれているのだと思っていた。
___甘え過ぎだったのじゃろうか・・・
漸く空気がひんやりし始めた、見上げる空も日毎に高くなる。
枯葉が舞い落ちる公園の片隅。月詠はベンチに座り、遅い秋の休日を過ごす人たちを見るともなしに見ていた。
犬を散歩させたり、親子でボール遊びをしたり。ベンチはほぼカップルが占領していて、時に目が釘付けになりそうな光景もある。何かのイベントにでも出るのだろうか大勢で巨大な旗を振り回しながら踊りの練習をしている一団もいた。これが結構な大音量で音楽をかけ、掛け声も喧しいから近くのベンチのカップルはそそくさと遊歩道の茂みの中に姿を消した。
陽射しは柔らかい。空気は冷たいが陽が当たるとポカポカと優しい温度が身体を包んで気持ちが良い。
こんな経験も吉原が解放され、銀時とつきあうようになって得たものだ。銀時に出会えたことをありがたいと思いつつ、
『・・・にしても遅い』
月詠は時計をにらんだ。時計の長針は約束した時刻より180度進んだ場所を指している。
色んな所にちゃらんぽらんだが時間には細かい銀時らしからぬ遅刻。
『何かあったのだろうか・・・』
銀時が姿を現すだろう公園の出入り口の方向を見ようと腰を浮かしかけた時、
「お嬢さんお一人ですか?」
誰かが声をかけた。
「?」
声が降ってきた方を見上げると、初老ぐらいの、髭を蓄えた男性が月詠ににこやかに笑いかけている。
「・・・え、あ、今、人を待っているところで・・・」
良くも悪くも目立つ容姿である、と地上に出るようになって自覚した。
口笛を吹かれたり、囃し立てられるのは毎度のことだから、そんな連中の扱いは慣れている。死神太夫の二つ名通り、背も凍る視線で一蹴できる。だが、こんな風に声をかけられたことのない月詠は口ごもった。
「そうですか。実は私も待ち人が来なくて・・・」
男性が言いながら振り向くと、年配の男女が数組、月詠と男性の方を見つめていた。
「怪しい者ではないんです。我々はダンスサークルで・・・。毎週ここで練習をしているのですが、今日は僕のパートナーが遅刻してしまって。もしよかったらお付き合いいただけないかと声をかけた次第です。」
余程、怪しんだ表情をしていたのか、男性は少し慌て気味に月詠に声をかけた理由を説明する。
「え?」
「いかがですか?お連れさんがいらっしゃるまで。私どもにお付き合いいただけませんか?」
「いや、わっち・・・あ、私はダンスなど踊れませんので・・・」
月詠が目を真ん丸に、鼻先で掌をぶんぶんと振って、断ると、
「ははっ!簡単なワルツですから。僕の動きにあわせて1、2、3と歩けばいいだけです。皆、忙しい中、時間を作って来ているので無駄にできないんですよ。無理なお願いは重々承知ですが。どうでしょう?」
と、手を差し出す。男性の仲間らしき年配の男女も人の良さそうな笑みを月詠と男性に投げ掛けている。物腰の柔らかい誘いに月詠はすげなく断ることができず、
「で、では・・・」
月詠が男性の手をとった途端、拍手が沸き起こった。
「・・・!?」
びくっと立ち止まる月詠に
「歓迎の拍手ですよ。獲って食いやしませんから大丈夫です。・・・さて、皆さん、お待たせしましたね。光栄なことにお嬢さんにおつきあいいただけました。始めましょうか・・・」
男性の合図を待っていたかのように音楽が流れ始める。優雅で流れるようなメロディは月詠が聴いたことのない音楽だ。男性は月詠の右手に自分の左手を重ねて、月詠の左手を自分の肩に、掴まるんじゃなく、触れる程度にと言って、乗せた。
「僕の動きに合わせて歩いてみてください。」
と、ステップを踏み始める
1、2、3 1、2、3 1、2、3、1、2、3
「そうそうそうです。やはり思った通り、筋が良い。」
男性は満面の笑みを浮かべてそう言った。
「?」
「ああ、気にしないで下さい。勝手に思っただけですから。」
男性はそう言って笑うと、ステップを踏みながら月詠をダンスの輪の真ん中に誘って行った。
禿の頃、踊りの練習は好きだった。逆に月琴や胡の練習は嫌いで、いつも身が入らず姐様や日輪によく叱られた。すっかり忘れていたことをふいに思い出して月詠の口元に笑みが溢れる。男性は目敏く、月詠に尋ねる。
「楽しいですか?」
「あ、いえ・・・」
わくわくという感情などいつどこへ捨てたか忘れてしまった。それを見抜かれたようで月詠は頬を赤らめて俯いた。その視界の端を白い人影が掠めた。
「・・・?」
足を止め、視線を上げるとさっきまで月詠が座っていたベンチの後ろに銀時が立っていた。
「どうかしましたか?」
月詠の視線を追うように男性もベンチの方を振り返る。
「すみません。知り合いが来ているので・・・」
「ああ、待ち人がいらっしゃいましたか。残念ですが仕方ありませんね。お付き合いありがとうございました。」
「あ、いえ、こちらこそ。」
月詠は挨拶もそこそこに銀時のもとへ走った。
「よお・・・」
「何時からおったのじゃ」
「あ?10分ぐらい前かな?」
「声をかけてくれれば良かったのに。」
「楽しそうだったからよ・・・」
「・・・楽しいもなにも、突然、声をかけられて、遅刻したパートナーの代わりを頼まれたんじゃ。踊れぬと断ったのじゃが・・・」
公園の真ん中で見知らぬ男とダンスをする破目に陥った理由を月詠は迷惑そうに説明するが、弾んだ声が迷惑なだけではなかったと告げる。
「・・・ふーん・・・」
銀時はベンチの向こう側に棒のように立ち、両手を懐に入れたまま、気のない返事を寄越した。目線を上げて、数秒の間、公園の真ん中でダンスを続ける一団を見ていたが、行くぞ、と突然、きびすを返す。月詠は慌てて、ベンチを回り込んで後を追った。
公園を立ち去ろうとする月詠の後ろ姿に
「毎週ここで練習していますからご興味があれば来てくださいっ!」
と、男性の声が追いすがった。
月詠の半歩前を銀時が歩く。
遅れた言い訳を言うでもなく、これから観る映画のことを話すでもなく。時折、目だけ動かして月詠の様子を伺いながら。
気のせいか、月詠の雰囲気がいつもと違う。うきうきしているような感じがする。ダンス集団が気になるようで公園を振り返ってもいる。銀時の耳に響く月詠のヒールの音も、ダンスの余韻を楽しんでいるようで、これも気のせいだろうがリズムを刻んでいるように聞こえる。
『・・・けっ・・・』
月詠が何をしようと、地下生活の長かった彼女の経験が積まれていくだけだ。それがなんだろうと喜ぶべきだと頭では理解している。けれど、癪に障る。月詠が経験するどんなことにでも、自分が関わりたいなどと傲慢なことは考えてはいない。けれど、癇に障る。
ざわつく腹の虫を黙らせようと大股で歩くと履き古したブーツが銀時の感情を代弁するかのように鳴いた。
___面白くねえ
待ち合わせに遅れたのは自分が悪い。けれど、遅れたといっても数十分で、その間に恋人はどこの誰とも知らぬ男とダンスを楽しんでいた。
___どこのお人好しの阿呆だって面白いはずがねえ
そんなことを考えながら大股で歩くから、自然と靴音が大きくなる。
すると、背後で月詠がくすりと笑った。
「なに?」
立ち止まりはするものの、振り返らないまま問う。
「ぬしの足音は力強いのお」
そう答える月詠の声が楽しそうだった。
「・・・」
「先程の男性はもっとこう・・・」
様子を伺うと月詠は言葉を探すように顎に手を当て小首を傾げた。
「・・・そうじゃっ!軽やかだった。」
良い言葉が見つかったとでもいうようににこにこと笑う。それが逆に銀時の気持ちを逆撫でする。
「へえ、そうかい。俺はダンスなんかできねえしな。ガツガツ地面を這いつくばって生きてくのが精々だ。」
「そうじゃの、靴もぬしは随分履き込んでいるようじゃ。先程の殿方は磨き上げたぴかぴかの靴じゃった。」
靴を磨く習慣なんぞ持ち合わせちゃいない。言った通り日々、食べるだけで精一杯だ。そんなことは月詠も重々承知のはずだから月詠に悪気はない。見たままを告げているだけ、それは分かっている。わかってはいるが面白くない。
見ず知らずの男と比べられているようで更に気分が悪くなる。
『ちっ』
銀時は舌打ちをして、ぴたりと足を止めた。
「なあ、映画やめない?」
両手は変わらず懐の中で、顔は月詠に向けもしない。
「え?」
「帰ってまったりしよ・・・。天気いいし。日輪さんの団子食って。縁側で昼寝しよ」
いや?と問いながら漸く視線を投げる。その眼差しにこの男が潜ませてきた幼稚性が浮かび上がる。月詠だから見ることのできる甘えた表情だ。
今日は映画を見て、評判のパンケーキ屋に連れて行ってくれると言っていたのに、なんで気が変わったのか月詠にはわからない。けれど、映画もパンケーキも二人で出掛ける口実で、一緒にいられるならどこでも、何をしていても構わない。だから、
「わかりんした。
」
と、月詠は頷き、少し首を傾げて、銀時を見つめた。
吉原に帰る道すがら、銀時はいつになく無口だった。
のべつ喋っているわけではない。話したいことがあれば話すし、なければ黙って隣にいる。時々、人の顔を覗きこむから何かあるのかと視線を合わせると、悪戯な笑みを浮かべて月詠の唇に触れる。そんな時間が愛おしくて仕方ないからただ黙って一緒にいるだけ月詠は十分だった。けれど、今日は会ってから交わした会話にどことなく不自然さを感じる。ぎすぎすしていると言えばしっくりくるか。このまま変な空気を持ち帰るのも・・・と、月詠はそれを払拭するために前を歩く銀時を呼んだ。銀時の足が止まり、月詠に向き直る。
今日初めてまともに月詠の顔を見た。
一目惚れして、すったもんだの挙句、漸く恋人と呼べる関係になった可愛い女。
逢う度、愛おしさが深まるだけの存在。
見上げる月詠の紫紺の瞳はいつも通り澄んでいて、あまりにも真っ直ぐ見つめて来るから、悶々としたものを腹に抱える銀時は思わず後退る。
「さっき、公園でかかっていた曲はなんというのじゃ?」
座敷で披露される楽曲は月詠も熟知しているが洋楽の、ダンスに使う曲など聴く機会がない。地上暮らしの銀時なら知っているだろうと月詠にとっては他意などない問いだ。どこか浮き浮きした雰囲気を残したままの問いに銀時の心が波立つ。
「お前さ」
「・・・?」
「俺があんなお上品で高尚な音楽知ってると思ってんの?」
どうしても普段通りに話せない自分をケツの穴の小せえ奴と内心でなじる。そんな銀時の声が冷たく感じて月詠は黙った。
「・・・生憎、とんと縁がなくて知らねーわ。」
「そ、そうか」
しゅん、と言う擬音が聞こえるかと思うほど落胆する月詠に銀時は、行くぞとだけ言って背を向けた。
「あら、もう帰ってきたのかい?」
日輪が壁の時計を見上げながら、二人を迎える。
「映画はどうだったのさ。」
「んー、やめにした」
「は?」
「天気いいし。こんな日に人がごちゃごちゃいるとこで映画なんか見なくても団子食ってまったりしよってことになった。」
流石に日輪は何気なさそうに答える言葉の端々に刺があるのを感じ取った。
「あら、そうかい。」
月詠をちらりと見る日輪の目が、何やらかしたんだい?と言っている。
月詠は日輪の責めるような視線の意味が分からず、目を見開いて、何がじゃ?と逆に聞き返す。
「だからさ、日輪さん、団子ちょーだい。」
「はいはい。」
こんな時は触らないに限る。黙って言う通りにして機嫌が直るのを待つだけだ。
銀時は惚れた弱味で月詠には甘い。逆もまた然りだが、如何せん、色恋にはとんと疎い妹分に、どこか意固地なところのある男だ。
回りがやきもきするのは今に始まったことではないが、子供じゃあるまいし何時迄も保護者掛でいいはずがない。
『何事も経験・・・』
日輪は黙って団子とお茶を用意した。
団子とお茶を盆にのせ、月詠は自室への階段を上がった。
『縁側で昼寝するのじゃなかったのか・・・』
大した違いはないが、どこか釈然としない気持ちで自室の襖を開けると銀時は窓側に寝そべっていた。
その横にそっと盆を置いて、月詠が座る。銀時は片目を開けて彼女を見た。
さっきからの自分の様子に気づいているのかいないのか、目があった月詠は
「団子じゃ」
と、一串とって差し出してきた。
「さんきゅ」
月詠の手から団子をとって寝転がったまま口に放り込もうとする。
「起きて食べなんし。行儀が悪いぞ」
銀時は月詠をちらりと見て、ヘーヘーと起き上がった。
「太夫は俺のおかーさんですかあ・・・」
団子にかぶりつき、咀嚼しながら銀髪をボリボリとかく。
何だかおかしい。
それぐらいは月詠にも分かる。けれど、何がおかしいのか分からない。なにか気に障ることでもあったのかと聞けば良いのかもしれないが、何一つ心当たりがないのだから、それもおかしな話だと思う。
月詠はなんとか空気を変えようと、彼女にしては明るい声で銀時に問うた。
「さっきの曲じゃが、日輪に聞いてみたが日輪も知らなんだ。一体、なんという曲なのじゃろうな、銀時、調べ・・・」
「あのおっさん、地雷亜に似てなかった?」
調べる方法を知らないか?と言おうとするのを銀時が遮る。
「・・・え?」
「似てたよ。痩せぎすで、表情の読めないところとか・・・」
「いや、顔なんぞ見る暇はなかった。足を踏まないようにするのに必死だったからの」
「へえ」
「なんじゃ?何が言いたいんじゃ?」
「別に」
「言いたいことがあるなら言いなんし」
「別に、なんも言いたいことなんかないよ。ただ、地雷亜に似てると思ったからそう言っただけ」
「地雷亜に似ていたらなんだというんじゃ?」
「・・・」
「銀時」
「・・・わかんねぇなら。いいよ」
「・・・と言うことはやはり何かあるのじゃろう。なんじゃ?」
「だから、わかんねぇならいいっつってんだろ」
「だったら、そんな顔しなんし」
「そんなって、どんな顔?」
「面白くなさそうな、苦虫噛み潰したような顔じゃ」
「・・・これがお好みじゃねぇならここにいたって仕方ねぇ。帰るわ」
持っていた串をさらに放ると、のっそりと立ち上がり、廊下に向かって歩き始める。視線の先の銀時の素足が月詠の横を通りすぎる。
「銀時っ!」
「おぼこもいいがよ・・・」
「・・・」
「も少し、男心ってもんを学んでくれよな・・・」
低く零れた銀時の声が階段を踏みしめる音と一緒に軋んで聞こえた。
___それっきり電話も寄越さぬとはどういうことじゃ!
廊下の電話の前に突っ立ち、月詠はちりんとも鳴らない電話を睨み付ける。
「電話とにらめっこは楽しいかい?」
「・・・?!」
魚を盗もうとしたところを見つかった猫のように月詠の毛が逆立つのを見て、日輪はやれやれと溜め息をついた。
「銀さんは一体どうしちまったんだい?」
3日にあけずひのやに顔を出していた男がぱたりと顔を見せなくなった理由を尋ねれば、おそらくその原因であろう妹は、知らぬとそっぽを向いた。
「あんたね・・・」
「な、なんじゃ」
「何やらかしたか知らないけど、電話の一本もかけてこないなんて余程腹の虫が治らないんだよ」
「・・・」
「謝っちまいな。知らぬ存ぜぬは通りゃしないよ。わからないならわからないなりに謝り様もあろうってもんだ。あんたが原因なのは間違いないんだから・・・」
「そうは言っても理由もわからないのに何をどう謝ったらよいのかわからぬ」
「銀さんがご機嫌斜めだから、連絡寄越さないことは自覚してんだね」
「・・・う」
「ごめんなさいの一言でいいんだよ。こんなところで電話睨みつけてたって伝わりゃしないよ」
「・・・わ、わかっておる」
「だったら・・・」
「わっちにも整理をつけたい気持ちというものがあるんじゃ」
「おや、そうかい。なら、さっさと整理をつけることだね」
「頭」
「・・・」
「頭?」
「・・・」
見廻りから帰ってきた部下が呼ぶのも上の空で、月詠は部下たちにお茶をいれてやっていた。
トプトプとやかんから注がれる熱湯が急須の口からあふれ出る。慌てて部下が月詠を呼んだ。
「頭っ!」
「なんじゃっ!・・・熱っ・・・」
「ちょ、頭!大丈夫ですか?火傷になってませんか・・・?」
畳を拭きながら百華の部下が月詠の顔を見上げると、正気に返ったように目をしばたたかせて見返してくる。
「なんだか最近変ですよ」
「ぼーっとしてること多いし」
「・・・な、なんでもない」
「ホントですか?」
「なにがじゃ」
「いえ、最近銀様も挙動不審ですし」
「銀時が?」
「・・・こら、余計なことを」
「あ」
「え?」
「あ、いや・・・」
「余計なこととはなんじゃ」
「あ~あ・・・・わっちは知らないんだから」
「あ、えと、あの」
一人が言い淀んでいると、また別の部下が口をはさむ。
「頭、最近銀様とお会いになってます?」
心配そうな面持ちで訊かれて月詠は口籠った。その様子に部下たちが頷きあうのを見て、月詠がなんじゃと問い返すと、
「先週ぐらいからかなあ」
「うん」
「他の子たちも言ってたんですけど、朝、大門番をしているとですね」
「・・・」
「銀様が降りてくるんです」
「・・・」
「ですけど、いつもそこで立ち止まってさんざっぱら考えた挙句、誰も言うなよって言って帰っていくんです」
「それが毎日」
「毎日?」
「そうです」
「・・・言うなって言われてたのに~」
「だって、銀様はともかくお頭まで様子がおかしいんだもの。喧嘩でもしてたらどうするのよ」
「そりゃ、そうだけど」
「で、どうなんです?頭。やっぱり喧嘩してたんですか?」
「・・・ば、馬鹿者!け、けけ、喧嘩なんかしておらんっ!」
真っ赤になって否定したところで信じてもらえるはずもなく。百華の面々の顔には、あ~、やっぱり、と言う文字が浮かぶ。
「早く仲直りしてください。頭がそんなだと士気に関わります」
「う・・・そんなに迷惑をかけていたのか?わっちゃ・・・」
「いえ、迷惑とかじゃなく。心配なんですよ、みんな」
「そうそう、頭にも銀様にも、幸せでいてほしいんです」
「みんな」
「ほら、こんなとこで泣いてないで・・・」
「泣くなら愛しの銀様の胸で泣いてください」
四角い空の端が明るくなり始める頃、月詠は大門に向かった。
門番の部下が2人、月詠の姿を認めるとにっこり笑って大門の重い扉を開けてくれた。
ギギギ
扉が閉まり切ると、そこから昇降機までは誰もいない巨大な空間になる。がらんとただ広いだけの場所に月詠のヒールの音が大きく響く。
ゴトン
正面の昇降機の前に立つと巻き上げ機が回り始め、“地上”の文字に灯りが点った。
ロープの擦れる音、おもりが巻き上がっていく音、シャフトの中を籠が下りて来る音を月詠は目を閉じて聞いた。
やがて緩衝機にぶつかる音とちんと囁くように鐘が鳴って、籠の到着を知らせる。
耳を澄ませば、分厚い扉の向こうで固い靴底が狭い空間の中で行ったり来たりしているのがわかった。
月詠は深呼吸をした。
籠から出てきた銀時がどんな表情をしていても、笑っていられるように。せめて、くないを投げることにならないように。
目を閉じ、胸に手を当てて深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。
ガタン・・・
昇降機の扉がガタゴトと不器用な音を響かせて開く。
こつこつこつ、ブーツの底が床にあたる音がして、月詠は歩数を数えた。
1・・・、2、3まで数えたところで靴音が止まる。
「・・・月詠・・・」
目を開けると、驚いた顔のまま固まった銀時が立っていた。
「・・・おま・・・ぇ、なんで・・・こんなところに」
「それはぬしも同じじゃ。こんな時間に吉原に何の御用じゃ?」
「・・・それはその・・・」
気詰まりなのか、歯切れ悪く早朝から吉原に来た理由を口にしかけて、ふと、我に返ったように月詠に向かう。
「・・・っ、俺のことはいいんだよ!!」
気色ばる銀時の頬が赤みを帯びる。その頬を月詠の両手が包む。
指が冷たい。閉ざされた空間とは言え、初冬の冷えは容赦なく地下の街にも忍び込む。月詠の細いしなやかな指は血が上りかけた銀時の頬を冷ますには十分なほど冷たかった。銀時は頬に触れた月詠の指を引きはがした。
「・・・バカヤロー!手が冷てえじゃねえか!いつからここにいたんだよ」
「かまわぬ」
「いや、かまうだろ!風邪でもひいたらどーすんだ!」
「・・・そしたら、ぬしが看病してくんなんし」
「・・・!」
「・・・ぬしを待つのは苦にならぬ。寒かろうと暑かろうと。・・・あの日も」
「?」
「あの日も決した待ちくたびれていたわけではないんじゃ。待ちくたびれて退屈であの殿御の誘いに乗ったわけではない。師匠に似ていたからでもない」
「・・・わかってるよ」
「銀時」
「わかってるけど・・・」
その先は言わなくてもわかるだろうと銀時の瞳が言う。月詠は笑って
「あの日、いや、いつも、ぬしと待ち合わせる時、わっちが何を楽しみにしているかわかるか」
と、逆に尋ねた。
突然の問いに銀時が顔に困惑の色が浮かぶ。
「ぬしの顔を見て、おはようと言えることじゃ」
「え?」
「デートの時ぐらいしか、顔を見ておはようと言えないじゃろ?」
「そりゃ、まあ」
かぶき町と吉原に住んでいては、物理的に無理な話で。
「ホントを言うと、できることなら毎日、一番にぬしにおはようと言うのがわっちならいいと思っておるんじゃ。あの日は言えなかったから、今日ここで待っておったのじゃ・・・」
「おはようございんす、お前様」
見下ろす月詠の顔が近づいて、銀時の唇に柔らかい彼女の唇が触れた。それと同時にふわりといい香りが銀時の鼻先を掠める。
「・・・」
顔を離した月詠は銀時が予想外に顔を真っ赤にして固まっていた。
「・・・な、何を赤くなっておるのじゃ!ちゅーぐらいで!」
火がついたような真っ赤な銀時に逆に恥ずかしくなって月詠背を向ける。
華奢な肩が恥ずかしさに小刻みに震えている。
『その“ちゅーぐらい”まで進むのに、一体どれだけ階段を上らされたと思ってんのかね、このおぼこ太夫は・・・』
震える肩を背後から抱いて、真っ赤になった耳たぶにそっと囁く。
「月詠・・・」
「・・・なんじゃ」
前に回った銀時の腕に月詠が指をそわすと、さっきの冷たさはすでになくなくっていた。その指を銀時の大きな手が包む。
「今、言ったことホント?」
「なにがじゃ」
「毎日、一番に俺におはようって言いたいって」
「そうじゃ。それがどうかしたのか?」
___それって
「それってプロポーズ?」
月詠の耳に思ってもいない単語が飛び込んでくる。
「な、なんでそうなる・・・あっ・・・!!」
拘束する腕を振りほどこうとしても、それは強くなる一方で、銀時の顔を見ることが叶わない。
「・・・いや、違う!そうじゃない!」
「なんで?いいじゃん、それ、いい考えじゃん。俺も毎朝、太夫に起こしてもらいたい・・・」
そういう銀時の声がまるでメロディーを口ずさむように弾んでいる。月詠は自分を羽交い絞めする腕にそっと唇を寄せた。
「そしたらさ、外で待ち合わせしなくてもいいし。なんかあって遅刻とかないし・・・」
「その間にわっちが他の男と踊ることもないし?」
「・・・あんなのはもうなしな・・・」
前に回った両腕にきゅっと力がこもる。
背中にあたる銀時の胸板が温かい。
首筋にかかる吐息やさわさわと触れる髪が気持ちいい。
男のくせにほのかに甘い匂いがするのも、今となっては安心できる銀時自身の匂いだ。
___わっちにはこの腕があればいい
「のう銀時・・・」
「ん?」
「わっちは甘え過ぎておったんじゃのう。こんなわっちでも愛してくれるぬしに甘え過ぎておった・・・」
「・・・」
「男心などわかりたいと思わぬ。わっちはお前様の気持ちさえわかればいいんじゃ。じゃが、世間知らず故、拙いところ、至りんせんところが沢山ありんす。これからもお前様が教えておくんなんし・・・」
ぽつりと呟くように吐いた言葉は自嘲気味で、少し寂しげだった。
会えない数日の間、考え続け、募る思いや焦がれる気持ちを整理して、辿り着いた月詠の答えなのだろう。
銀時は拘束した腕を解いた。ふっと背中が寒くなって、不安そうに月詠が振り返る。銀時はそんな月詠を自分に向き直らせると、細い面を両手で包んで、その唇に口づけを降らし、囁いた。
___喜んで
ひのやの店先でモーニングコーヒーならぬ、モーニング団子を頬張る銀時が懐から何かを取り出し、隣に座る月詠の膝の上に放り投げた。それはどこか他所の国の風景写真をジャケットにしたCDで、タイトルが青い文字で書かれていた。
「・・・?・・・美しき青きドナウ?」
「この前のあの曲。それだってさ」
「調べてくれたのか?」
「・・・まあね」
「日輪、ここで聞いていいか」
CDを握りしめ、頬を紅潮させて、厨房の日輪を振り返る。
「どうぞ、どうぞ」
「ちょっと待っておれ。確か、晴太の部屋にCDプレイヤーがあったはずじゃ」
嬉しそうに暖簾を掻き分ける月詠の姿を銀時と日輪が眺めて、こっそり目配せしたのはここだけのお話。
fin.