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恋、はじめました

             #5 災い転じて福となす

いつもの時間、いつもの電車、いつもの座席。
俺が眺める景色も変わらず、俯瞰の彼女。これもいい眺めだが、たまには違う景色も見たい。

手にした文庫本からちらっと視線をはずして彼女を見る。日差しが強くなってきてるのにうなじは白いまま。
日焼け、しねえのかな?
何てぼんやり考える。
ん?
彼女がにじり寄ってくる。

本をおろしてよく見ると、彼女が窮屈そうに身体を捩っている。彼女の左側に座る乗客が爆睡してるのか、上体が彼女にもたれ掛かって、だらしなく広げた脚が彼女の太股にペッタリと貼り付きそうだ。
あまりにもたれ掛かるので席を立つにも立てないのか肩を竦めて身を小さくする彼女。
なんだこのやロー!てめえ、このやロー!と、心の中でしか抗議できないのがもどかしい。本当に迷惑だろう、そんな脂ぎった頭、いつクリーニングに出したか分からねえようなくたびれたズボンを押し付けられちゃ。
どうせもたれ掛かるなら左隣の男に凭れればいいのに右側の彼女の方に倒れてくる辺りがもうスケベ心満載。態だとしたらけしからんし、そうでなくても女性には気の毒すぎる。で、俺は意を決した。
彼女の背後から手を伸ばして倒れてくる男の肩を掴む。男も彼女も飛び上がらんばかりに驚いた。

彼女は鳩が豆鉄砲食らったような顔で俺を見てる。おっさんは事態が把握できていないらしい。ってことは、マジで爆睡かましてたのか。
が、不快な表情を見せた。多分、いきなり肩を捕まれたことに対してだ。剣呑な顔で俺を見るから俺もできるだけ低い声で言った。
「悪ぃね。こちらの女性があんたにもたれ掛かられてとても迷惑そうだったんでね。つい手が出ちまった」
そう言うとおっさんははっとして口の回りをスーツの袖でぬぐった。そして、彼女にすんません、すんませんと頭を下げてそそくさとその席を立っていった。
その後ろ姿を見送って、
「ありがとうございます」
と、彼女が席を立った。心底ほっとした表情で俺を見る。
「あ、いや」
どうか、座ってと手で制して、
「災難でしたね」
などとカッコつけて言ってみる。彼女は深々と頭を下げて席に戻った。



翌日、彼女は車両に足を踏み入れるなり、まっすぐ俺を見てこっちに向かって来た。
おはようございます、とにこやかに笑って、座席には座らず俺の隣に立つ。なんのことやらわからずキョトンとしてると迷惑か?などと聞いてくる。・・・なはずないじゃん。ずっとお近づきになりたかったのは俺の方。こりゃ、昨日の親父に感謝しなくちゃと、内心舌を出す。
「いや、とんでもない」
と、顔の前で盛大に手を振ってから、昨日は災難だったですね、と言うと、本当に困っていたと笑いながら、本気で寝てたみたいなので急に席を立つのも気の毒かと思って我慢してたと彼女。
いい娘だよ。やっぱりいい娘だよ。
痴漢だったらどーすんの?と思ったけど、彼女の善意に水を差す必要もねえと口にチャックした。

それから、毎日、色んな話をした。職場は吉原だとか。そりゃそうだろう。母親代わりの姉とその息子と三人暮らし。ゲーム理論のことも聞いた。高等数学でもやってたの?と。すると彼女は全く畑違いだと言った。だけど、だから、普段使わない脳細胞が全速回転するみたいで気持ちいいとも。
脳細胞どころか全身の細胞がだらだら過ごしてる俺には耳が痛い。俺には毎日、数分、彼女と話すこの数分が、それこそ気持ち良かった。
色んな話しはしたが、仕事の中身とか、もっと突っ込んだ話はチキンの俺にはできなくて、というか、それだけで満足している自分に戸惑うばかりでそれ以上、何をどうしたいという欲がわかない。
今までだって自分から動いたことはなかったけど、なんだかこんな関係を大事にしたい、なんて、殊勝な気持ちの方が強くて、飯どころかお茶すら誘わず、それどころか仕事が終わる時間すら聞かずにいた。





to be continued...

 

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